兵庫県赤穂市の文化財 -the Charge for Preservation of Caltural Asset ,Ako-
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赤穂城下町跡発掘調査(2003-9・10区)現地説明会資料

平成15年2月16日

はじめに

 赤穂市教育委員会では、1月17日から赤穂城下町跡を発掘調査しています。今回、調査の途中ではありますが、一定の成果を収めましたので説明会を開催いたします。現在実施中の街路拡幅事業によって、この場所の遺跡はほぼ永久に見ることができません。今回の説明会によって、赤穂城下町に関する興味を、少しでも持ってくだされば幸いです。

1 赤穂城下町と盛土

赤穂城下町のある加里屋地域には、中世に砦があったとされますが、現在にもつながる都市整備が実施されたのは江戸時代でした。1600年に池田氏が播磨地域を支配するようになると、「掻上城」(現在の赤穂城とは違います)を築くとともに城下町、旧上水道施設を整備しました。その後、浅野氏が入封して現在の赤穂城を築きます。このときにも、城下町は拡大整備されていったことが絵図から判明しています。 これまでの調査成果から、江戸時代前期の地面は現在の地面から1m程度地下(標高約1m)にあることがわかっています。時代が新しくなると1mも地面が高くなるのは、洪水などの被害から守るため、当時の人々が数回にわたって土を盛ったためと考えられます。当時の人々は、住んでいた地面を掘り返すのではなく、主に土を盛って建物を建てていました。発掘調査では、このおかげで昔の生活がわかることになります。発掘調査をすると、現在の地面から掘り下げて生きますので、新しい時代のものから順番に顔を出してくることになります。

2 調査成果

今回調査した地点は2ヶ所あり、それぞれA地区、B地区と分けています。それぞれの地区の成果について概要を述べていきます。

調査成果

A地区
江戸時代前期
 造成中の土器・陶磁器・木製品・瓦製品溜まりが見つかりました。良好な一括出土遺物です。陶磁器では伊万里焼、唐津焼、備前焼が出土しており、考古学的な年代観を考える上で重要です。また、瓦質の火鉢、硯など珍しい製品も出土しています。
江戸時代後期
土塀跡・建物礎石が見つかりました。現在のコンクリート壁のある敷地境界と変わらない場所で、土塀と石組溝が見つかりました。また、この土塀に接するように、南側では建物礎石が全体的に見つかりました。北側でも若干ですが、礎石、礎石抜取り穴があります。
幕末以降
土塀基礎と思われる遺構がありました。先に述べた江戸時代後期の土塀は、現在の敷地境界と変わりませんから、ずっと立っていたと考えられます。この土塀の北側には石組の排水溝があり、屋外であったと考えられます。
旧上水道施設が見つかりました。竹管、瓦管、素焼土管が出土しました。江戸時代のものは現在のところわかっていません。
道路石組が見つかりました。道路石組が2時期分ありました。内側のものから外側のものへ拡張されていることがわかっています。現在の「お城通り」の道路側溝になる石組だと思いますが、屋敷側の石組のみで、道路側の石組は見つかっていません。
B地区
江戸時代後期
建物礎石が見つかりました。現在調査中ですが、若干の建物礎石を検出しています。
土坑が見つかりました。浅い穴からは陶磁器類が多数出土し、土人形も2点出土しています。
明治以降
鍛冶炉が見つかりました。野外に作られたと思われる鍛冶炉を検出しました。炉には、高熱によって漆喰が硬化した面や熱を受けて変色した部分があることから、ふいごが用いられたことがわかります。周辺には炉に隣接する穴(冷却用の水甕を置いていた?)とそれを囲うような漆喰壁の痕跡が見つかり、周辺施設も良好に残存していました。この鍛冶炉は、農具などを製作・修理した「野鍛冶(のかじ)」施設と推定しています。
建物礎石が見つかりました。大きく分けて2時期にわたる建物礎石を検出しました。古い建物には石組の側溝が伴っており、新しい建物は調査区全体が束柱をもつ建物の礎石で占められていました。

写真1 写真2 写真3

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巻頭写真1
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