兵庫県赤穂市の文化財 -the Charge for Preservation of Caltural Asset ,Ako-
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赤穂城下町跡発掘調査(2003-3・4・5区)現地説明会資料

ごあいさつ

 ご多忙のところ赤穂城下町跡発掘調査現地説明会にお越しくださり、ありがとうございます。6月29日から発掘調査を開始し、江戸時代中期〜後期について一定の成果を得ることができましたので、中間発表として説明させていただきます。小規模でたいへん地味な調査ですが、それからわかる加里屋の人々の祖先のことについて、思いをめぐらしていただければ幸いです。

1 文献からみた赤穂藩・赤穂城・赤穂城下町の歴史

 加里屋の町は、戦国時代に岡(おか)豊前(ぶぜん)守(かみ)光広(みつひろ)が砦「加里屋古城(こじょう)」を築いたことに始まるとされています(1466〜1483頃)。その後、豊臣秀吉の政策によって生駒(いこま)親正(ちかまさ)、宇喜多(うきた)秀家(ひでいえ)らが赤穂を治めました。
 しかし慶長(けいちょう)5年(1600)の関ヶ原の戦いで豊臣氏が敗れて江戸時代となり、赤穂は播磨一国を支配した池田輝政の領国となります。
 池田(いけだ)輝政(てるまさ)は本拠である姫路城のほか、播磨内に6つの支城を置いて領国を固めました。6つの支城とは三木城、明石(船上(ふなげ))城、高砂城、龍野城、平福(ひらふく)利神(りかん)城、赤穂城であり、一族もしくは家老クラスの重臣を置き西国への防備としました。赤穂には末弟である池田(いけだ)長政(ながまさ)が配されましたが、慶長8年(1603)には二男忠継(ただつぐ)に備前国が与えられたため、西への防備は備前国にまかされることになり、赤穂には代官(だいかん)として垂水(たるみ)半左衛門(はんざえもん)勝重(かつしげ)が置かれました。
 垂水半左衛門は加里屋の地に「掻上(かきあげ)城」を築き、元和2年(1616)には熊見川(くまみがわ)(現千種川)の上流から上水道を引くなど、城下町基盤を整備しました。その後、池田政綱(まさつな)・輝興(てるおき)が赤穂藩主としてつづけて入封(にゅうほう)します。ところで、明治41年(1908)発行の『赤穂郡志』には、元和(げんな)9年(1623)に大火災がおき、加里屋の町は2軒を残して全焼したとの記録があります。この時期は垂水半左衛門もしくは政綱の時代となりますが、この後に整備された城下町が、現在の加里屋の基礎となっています。

 正保2年(1645)には常陸(ひたち)国笠間(かさま)から浅野(あさの)長直(ながなお)が赤穂へ入封(にゅうほう)します(53,500石)。長直は慶安(けいあん)元年(1648)に赤穂城築城に着手し、寛(かん)文(ぶん)元年(1661)に完成します。また、町中(まちなか)の池を埋め立てて町家や田とし、寺を多数建立するなど、城下町を拡大整備します。このとき、南にあった細工町(さいくまち)が、北の船入(ふないり)西側に一括して移転しており、領主によって町割が変更されたことがうかがえます。なお、宝永(ほうえい)3年(1706)の明細帳(めいさいちょう)によれば、当時の加里屋の人口は4,744人とされています。
 元禄(げんろく)14年(1701)に、赤穂藩主浅野長矩(ながのり)は江戸における刃傷(にんじょう)事件によって切腹となります。永井(ながい)直敬(なおひろ)による数年間の治世の後、宝永(ほうえい)3年(1706)に入封した森家(20,000石)は、1871年の廃藩置県に至るまで12代続きます。

2 近年の発掘調査からみた赤穂城下町の歴史

 赤穂市教育委員会では平成10年度以降、赤穂城下町跡の発掘調査を行っています。これまでの継続的な発掘調査によって、古い生活跡は地下深くに埋まっており、江戸時代の遺跡が良好に残っていることがわかってきました。現在の地面の標高は約2.2mですが、西暦1600年ころは1m程度でした。現在、私たちが家を建てるときには大雨の際の浸水を防ぐために盛土造成をしますが、江戸時代も同様で、地面が標高1mと低く、隣に熊見川(現千種川)があるという状況は、防災の面からみて心もとないものだったに違いありません。これまでの発掘調査によって、数回にわたって行われてきた盛土造成の時期がわかってきましたので、新しい時代から順に紹介します。

第1遺構面(幕末〜近現代)
 現在も一部で使われている石で造られた道路側溝はこの時期のもので、それ以前のものはほとんど確認されていません。また、これまでの発掘調査では明治時代のものと思われる鍛冶炉(かじろ)なども見つかっています。
第2遺構面(1600年代後半〜1800年頃=浅野・森時代)
浅野氏によって整備された盛土造成面だと思われます。この第2遺構面の盛土内には17世紀中頃〜後半の遺物しかありませんが、この遺構面以上では18世紀全般にわたる遺物が出土しています。また生活している痕跡である「生活層」が分厚く、150年〜200年間はこの地面の高さで生活されていたと考えられます。つまり森氏時代はほぼこの高さであったということです。
第3遺構面(西暦1600年代前半=池田時代)
 池田政綱・輝興の時代であり、浅野氏が整備するまでのものです。発掘調査で第2遺構面(この上の生活面)の盛土中より17世紀中頃〜後半の遺物が出土しているので、それ以前ということになります。ほかに木製の上水道枡(ます)、竹管(たけかん)、建物礎石が見つかっています。
第4遺構面(西暦1600年代初頭以前)
 池田氏が播磨に入封したばかり、もしくはそれ以前の時代です。これまでの発掘調査では、大きな曲物(まげもの)を据えた穴や、上水道の竹管、地鎮(ぢちん)に使ったと思われる土師器(はじき)皿(カワラケ)などが見つかっています。建物礎石などは見つかっておらず、詳細はまだわかっていません。

 以上のことから考えると、池田氏がはじめて赤穂に城下町をつくった時期、浅野氏が城下町を拡大整備した時期にそれぞれ盛土造成が行われますが、それ以降、明治時代になるまではほとんど盛土造成が行われていないことになります。しかし常に人々が生活している城下町を盛土造成し、各町家(まちや)に敷設(ふせつ)されている上水道などを改修することは大変労力のいる作業であり、洪水被害に対する長期計画の一つとして、現在にも受け継がれています。
 なお、赤穂城跡でも発掘調査を継続的に実施していますが、下層からは池田氏によって築かれたと推定される石垣などが多数見つかっています。

 江戸時代の赤穂城下町のようすを知ることのできる資料に、『赤穂城下町絵図』があります。この絵図は宝永元年(1704)の状況を示しているもので、各町家の敷地規模や所有者の名が書き込まれています。今回の発掘調査地点はすべてメインストリートである「通り町筋」に属し、「七(しち)兵衛(べえ)」「久右衛門(きゅうえもん)かしや(貸家)」「甚蔵(じんぞう)」「孫(まご)兵衛(べえ)」といった人々の家の一部であることがわかります。七兵衛さんと久右衛門さんの貸家をA地点、甚蔵さんの家をB地点、孫兵衛さんの家をC地点として話を進めましょう。

3 今回の発掘調査

A 地 点

 現在、第1遺構面(幕末〜近現代)、第2遺構面(江戸中期〜後期)を調査しています。
 第1遺構面では道路石組、上水道、敷地境界石列とわずかの礎石が見つかっています。中央やや北よりの境界石列は、七兵衛さんの家と久右衛門貸家の敷地を分けるものです。ただし彼らの本当の生活面は第2遺構面なので、この石列の下層にわずかに見えている石列がそうなります。この石列は、現在も敷地境界となっており、300年間の間町割(まちわり)が変わっていないことが確認できます。また、家の前にある道路側溝の石組が確認されています。
 第2遺構面では多くの礎石が見つかりました。第1遺構面と同じ場所に敷地境界石列があり、石列より北側が七兵衛の、南側が久右衛門貸家の敷地となっています。この2つの礎石列は同じ時代のものと思われますが、見つかっている地面の高さが異なります。これは各家によって盛土や造成の高さが異なっているということであり、各家の盛土造成は全く同時に、一度に行われたものではないことがわかります。なお、久右衛門貸家の建物礎石は、礎石の上にさらに礎石が乗っているものがあり、並びにもズレがあることから、少なくとも1度は建て替えられていることがわかります。なお、この面でも道路石組が確認できます。これより下層の遺構面については、面的には把握できていませんが、部分的に池田時代の建物礎石が見つかっており、今後の調査が期待されます。

ポイント 〜領主と町人の町計画〜

B 地 点

 第1遺構面は礎石1基しか見つかりませんでした。第2遺構面でもほぼ同様です。これらは、上に建物を建てる際の造成で壊されてしまっているのでしょう。ただ、第2遺構面では石臼(いしうす)(茶臼)が出土しています。また、ここでは一部について深く掘削し、第3遺構面(池田時代)の生活でできた炭層を確認しています。

ポイント 〜茶臼〜

 これまでの発掘調査で石製の臼はいくつか見つかっていましたが、茶臼ははじめて出土しました。茶臼はふつうの石製臼(粉挽(こひき)臼)に比べて小さく、抹茶(まっちゃ)粉を受ける皿のついたものです。抹茶を挽(ひ)く茶臼の場合、臼に刻まれる「目」が臼の縁にまで見られないのが特徴ですが、古いものには目が縁まで刻まれている傾向があり、他地域を含めた今後の出土例を待つ必要があります。第2遺構面で出土しているので、捨てられた時期は1600年代後半から1800年頃までの時期となりますが、今後穴の中から一緒に出土した遺物で限定していくことになります。

C 地 点

 敷地の規模から考えると、孫兵衛さんの敷地の前部分を全て調査していることになります。第1遺構面の礎石列は西側に偏って出土しています。その他、上水道の瓦管(かわらかん)も出土しています。
 第2遺構面では礎石列のほか、その下に炉(ろ)跡を検出しました。礎石列は中央から北側に多く見つかり、いくつかは並んでいる様子がわかりました。南側では、ほとんど礎石が見つからず、また「タタキ土間」が認められるため、南側は土間であったと思われます。聞き取り調査によると、80年ほど前に建っていた家でもこの位置に土間があったらしく、上水道や排水路などの水回りの問題から、建物の構造が江戸時代からそれほど変わっていないことがうかがえます。

ポイント 〜炉と建物礎石〜

 炉は石囲いとその横に付随する焼土(しょうど)・炭の詰まった穴で、形態的には竃(かまど)のようにも思われます。しかし、地面に穴を掘っていること、土間の壁際ではなく中央にあることから、一般的なものとは少し異なります。昨年度の調査では明治時代と推定される鍛冶炉(かじろ)が見つかり、高温度で焼けて固まった漆喰(しっくい)などが見つかりましたが、今回の調査では見つかっていません。現在のところは広い意味で「炉」と呼び、これからの調査によって明らかにしていきたいと思います。
 なお、炉は第2遺構面で見つかっていますが、同じ遺構面にある礎石の下から見つかっていますので、第2遺構面(1645〜1800年頃)は大きく2つの時期に分けることができ、その中でも古い時期に位置付けることができます。しかも炉は土間に造られるものですから、この場合、もともと土間であったものが床をもつ部屋にリフォームされたと考えてよいでしょう。

4 まとめ

 今回の調査では、多くの礎石が見つかるとともに当時の盛土造成の状況を知ることができ、江戸時代の城下町整備についての実態に迫ることができました。また、土間、炉といった建物間取りを推定できる遺構が良好な状態で見つかり、土間や敷地境界が300年間変化していない地点があるなど、現在の加里屋の町のルーツを見ることができました。さらに、当時はなかなか手に入らない茶臼が良好な状況で出土し、「茶の湯」を趣味とした町人たちの存在をうかがわせる貴重な成果となりました。C地点で見つかった炉は現在調査中ですが、江戸時代の同様の遺構はこれまで見つかったことがなく、今後の調査によって貴重な事例となると考えられます。

 今回は第2遺構面の成果発表ということで中間発表となりましたが、今後第3・第4遺構面の発掘調査を行うことで、池田時代の町家や町人の生活をかいま見ることができます。調査面積が少ないながらも発掘調査を行ってきた結果、江戸時代の赤穂城下町についていろいろなことが判ってきました。今後も、現在の町の基礎である赤穂城下町跡について地道な発掘調査を行うことで、町人の暮らしぶりの豊かな内容を知ることができるでしょう。

参 考 資 料

 脱穀(だっこく)・精白(せいはく)・製粉、餅搗(もちつ)き、あるいはさまざまな素材の粉砕に用いる民具で、搗臼(つきうす)と摺臼(すりうす)(磨臼)に大別される。搗臼(つきうす)は臼の凹部に入れたものを杵(きね)で搗(つ)く。効率の良い摺臼(すりうす)が普及するまで、脱穀・精白・製粉は搗臼(つきうす)で行われていた。
 石製摺臼(すりうす)が日本に伝来したのは飛鳥時代で、『日本書紀』に曇徴(どんちょう)がはじめて碾磑(みずうす・てんがい)を造ったと記されているが、一般庶民に広く普及したのは江戸時代中期以降であった。摺臼(すりうす)は挽臼(ひきうす)ともいわれ、茶臼(ちゃうす)・粉挽臼(こひきうす)・豆腐臼・鉱石用摺臼(すりうす)などの石製摺臼(すりうす)と、籾摺(もみす)り用の木摺(きすり)臼と土摺(つちすり)臼がある。摺臼(すりうす)は上臼(うわうす)と下臼(したうす)に分かれ、上臼に取手をとりつけて回転させる。石製摺臼(すりうす)には、上下の臼の磨(す)り面に目(メ)と呼ばれる細い溝を刻む。溝は6分割、または8分割のものがあり(主溝)、その中に副溝を刻む。(日本民俗大辞典<上>より一部抜粋・改変)
東京都江戸遺跡出土の臼
 江戸遺跡から出土する臼のほとんどは石製の挽臼(ひきうす)であり、用途も製粉用の粉挽臼(こひきうす)と抹茶用の茶臼である。粉挽臼(こひきうす)は花崗岩(かこうがん)など白色のものが多く、茶臼は安山岩(あんざんがん)など黒色のものが多い。粉を挽(ひ)く「目」について、粉挽臼(こひきうす)は六分割、茶臼は八分割のものがほとんどである。茶臼は粉挽臼(こひきうす)に比べ小形で、上臼の側面には正方形の装飾のついた把手用の孔が一つ開けられ、下臼の側面周囲には挽(ひ)きあがった抹茶を受ける皿状の凸帯部が付属している。とくに年代的な偏りを示さず、江戸時代を通じ普遍的に用いられていたものと考えられるが、茶臼は武家屋敷での出土が目立つ。(『図説江戸考古学研究辞典』より一部抜粋・改変)
抹茶
 唐の時代のお茶は、葉を蒸してつき固め、よく乾燥させて削り取って粉末にし、碗に熱湯とともに注いでかき混ぜて飲む、いわゆる「磚茶(だんちゃ)」が主だった。後には、蒸した葉を乾燥して保存し、必要に応じて粉に挽(ひ)く「抹茶」となった。日本でも中世に抹茶が主流となり、乾いた茶を茶臼で挽(ひ)いて作るので「碾茶(ひきちゃ)」ともいわれた。本来は飲用の直前に挽(ひ)いた「挽(ひ)きたて」が一番美味なのであるが、一般庶民は挽(ひ)いたものを茶屋で買ってくる。第一茶臼は硬い特殊な石を必要とするので、なかなか一般には手に入らないこともある。江戸中期に挽(ひ)かない葉茶が流行するとともに、市井(しせい)では煎茶(せんちゃ)や番茶(ばんちゃ)に押されて、抹茶は好事家(こうずか)の独占のような形になった。(『図説江戸時代食生活事典』より一部抜粋・改変)
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