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    企画展「有年の遺跡発掘調査速報展」報告


    ここでは、平成24年9月28日(金)~平成24年11月12日(月)に開催された企画展報告として、展示テキストを掲載しています。


    第1章 有年のあけぼの-縄文時代-
     赤穂市の北部にあたる有年地域は、JR播州赤穂駅のある南部の町とくらべて、田んぼが多いんだ。でもね、JR播州赤穂駅のまわりは、平安~鎌倉時代(1,200~800年前)にかけて、やっと地面ができたところだったんだ。たとえば2,000年前は海の中だったんだよ!
     あと地図をみてもらえばわかると思うけど、東の姫路から西の岡山へ行くときには、JR播州赤穂駅のほうに行く必要はなくて、むしろこの有年を通る方が、一番早く行けるんだ。昔の人たちは自然の山道を歩いたりしていたわけだから、南部の町より有年が栄えていたということは、よくわかるよね。
     ちなみに今、有年でいちばん古いと言われているのが「西有年・馬路池遺跡」。とっても小さな「矢じり(弓矢の先)」が見つかっているんだ。三角形の一辺が大きくくぼんだ形をしてるんだけど、この特徴は縄文時代早期(約10,000年前)から前期(約6,000年前)のものなんだ。古いよね!
     でもこの時に住んでいた人たちは、ずっとここに住んだわけではなかったんだ。シカやイノシシをとっては、「エモノ」がいなくなると移動していったんだよ。有年に人々がとどまって住み始めるのは、縄文時代後期(約4,000年前)になってからだ。赤穂市の周りの町でも、この時期からたくさんの遺跡が発見されるんだよ。
     縄文時代の人たちは、シカ、イノシシ、ドングリ、魚といった自然のものを食べて生活していたんだ。最近発掘された有年原・クルミ遺跡では、縄文時代後期の遺跡が発見されたんだけど、ここでは石鏃(弓矢の先)、削器(ナイフ)、磨石(木の実を粉にする道具)とかが見つかって、当時の人々の生活のようすがよくわかる資料になったんだ。あと、市内で唯一、縄文時代晩期(約3,000年前)の生活跡も発見されたんだよ!

    第2章 有年、大いに栄える-弥生時代中期-
     弥生時代になると、人々は田んぼでお米を作り始めるんだ。田んぼをつくると、1年をとおして同じ場所に住み続けられるし、田んぼに水を入れるために、周りのムラとの話し合いも必要になるよね。縄文時代から弥生時代になり、お米を食べるようになると、こんなふうに生活場所や生活のスタイルが変わってくるんだ。おもしろいよね。しかも、田んぼは大きければ大きいほど、たくさんのお米を作ることができるんだ。お米は保存もできるし、たくさん作れるムラが豊かになるので、大きな平地をもつ地域が、どんどん豊かになっていったんだ。
     有年は、千種川の流域で1、2を争うほど平地が広いんだ。また、さっき話したように交通の便もよかったから、有年はとっても栄えたんだよ。
     有年の弥生時代のムラといえば、有年原・田中遺跡、東有年・沖田遺跡が有名だったんだけど、最近の発掘調査で、有年牟礼・井田遺跡がとっても大きなムラだったことがわかってきたんだ!
     発掘調査では、弥生時代中期後半(約2,000年前)の竪穴建物跡が10棟も見つかったんだよ。このうち2棟は火事で焼けた建物の一部が残っていて、当時の家のようすがよくわかる資料になったんだ。この発掘調査では、川や谷といった周りの自然地形も見つかったから、自然地形の中で、人々がどう暮らしていたのかも、よりよくわかったんだ。
     とても栄えた有年だったんだけど、実は弥生時代後期(1,900年前)になると、人々はこれまで住んでいたムラを捨てて、住みにくい山の上に住み始めたり、社会が大きく変わるんだ。有年牟礼・井田遺跡や有年原・クルミ遺跡でも、この時期のムラはほとんど見つかっていない。有年原・田中遺跡や、東有年・沖田遺跡にはムラが見つかっているから、みんなが集まってきたのかもしれないね。大きな謎なんだよ。

    第3章 地域の拠点へ-古墳時代初頭~古墳時代前期-
     弥生時代後期末~古墳時代初頭(約1,800年前)にも、全国で大きな変化が起こってるんだ。
     まず、それまで各地でつくられていた、地域オリジナルの大きな墓がなくなって、代わりに「前方後円墳」と呼ばれる墓をつくり始めるんだ。また、全国各地の土器が、いろいろな場所へと運ばれるようになるんだ。たとえば大阪の土器が、九州で見つかったりするんだよ! すごいよね。あとは、弥生時代のムラは「環濠」という大きな溝のなかで集まって暮らしていたのが、古墳時代に入ると環濠がなくなってバラバラに住むようになったとも言われてる。何が起こったんだろうね。
     有年では、この時期のムラがたくさん見つかっていて、有年原・田中遺跡や東有年・沖田遺跡はもちろん、有年原・クルミ遺跡や有年牟礼・井田遺跡でも、竪穴建物跡などが見つかってるんだ。さっきの話の中で、土器が運ばれる話をしたけど、この有年にも香川県の土器や岡山県の土器が多く運び込まれてるんだ。香川県からは舟を使って運ばないといけないから、大変だったろうね。あと有年牟礼・井田遺跡では、島根県あたりから運ばれた土器や、「素文鏡」という小さな鏡も見つかってるんだよ! この種類の鏡は、赤穂市で初めて見つかったんだ。
     こうした、ムラの発掘がたくさん行われたほかに、平成23年度には、墓の遺跡、有年牟礼・山田遺跡が発掘調査されたんだ。ここでは2基の四角い墓「方形周溝墓」が見つかったんだけど、1号墓が長辺19m、2号墓が長辺12.2m以上と、とっても大きいんだ!
     うにゅコラムで説明するけど、墓の形や見つかった土器には、たくさんの謎が残ってるんだ。今後、調査研究をしなくてはね。

    第4章 蟻無山の時代-古墳時代中期-
     前章で話したように、古墳時代の初めには大きな社会の変化があったんだけど、それが収まるのが、古墳時代中期(1,600年前)かな。この時期になると、古墳時代初頭までのような大きな社会変化を示す遺構や遺物は少なくなるんだ。人々がふつうの生活で使っていた土器も、これまでの地域ごとのオリジナルの土器ではなく、全国でだいたい形も似てくるし、墓も同じようなものになってくるんだよ。これは、奈良県を中心とするいわゆる「ヤマト政権」の支配がだいぶ整ったからかもしれないね。
     これまで、古墳時代中期のムラは、実は有年でほとんど見つかっていなかったんだ。でも最近の有年牟礼・井田遺跡の発掘調査で、ムラの周囲にあったと思われるお祭りの跡が見つかったんだよ! たいへん貴重な成果なんだ。
     ちなみに、古墳時代初頭から前期にかけて、旧赤穂郡(赤穂市・相生市・上郡町)でいちばん栄えていたのは上郡町南部で、大きな前方後円墳がいくつか見つかってるんだ。でも古墳時代中期になると、こうした立派な墓は有年でつくられるようになるんだよ。まず古墳時代中期初めに蟻無山古墳群が、そのつぎに奥山古墳群ができるというように、ずっとこの場所で墓がつくられ続けたんだ。ただ、古墳時代初頭から栄えていた上郡町南部と、中期になって栄えた有年の場所の間は、たった3kmしか離れてないんだ。だから、古墳時代初頭から中期にかけては、有年から上郡町南部が一番栄えていたと言えるね。
     古墳時代前期から中期の変化は、播磨では実はお墓で見えてくるんだ。それはね、古墳時代前期には前方後円墳がたくさんつくられていたのに、中期になるとすっかり姿を消して、ほとんどの古墳が「円墳」か、「帆立貝形古墳」になってしまうんだよ。とっても不思議だね。帆立貝形古墳の蟻無山1号墳は、当時、千種川流域で一番大きい古墳で、権力が大きかったことがよくわかるんだ。
     この古墳も、平成22年度に測量調査をして「造出し付き帆立貝形古墳」であると初めてわかったんだ。あと、これまでに拾っていた埴輪を大学の先生に見ていただいたところ、船形や鳥形をした埴輪も発見することができたんだ! 蟻無山1号墳は渡来人との関係も考えられてるから、船の埴輪はとても興味深いと僕は思ってるよ。

    第5章 横穴式石室の時代-古墳時代後期-
     大きな古墳がつくられていた古墳時代中期とくらべると、古墳時代後期(約1500年前)の墓は、実は小さくなるんだ。でも、墓の形が大きく変わってるんだよ。
     古墳時代中期までは、穴を掘って棺おけなどをおさめ、一度埋めてしまうと二度と空けることはなかったんだ。それに対して古墳時代後期の墓は、石を積んで広い部屋をつくり、なかに棺おけをおさめるんだけど、部屋は入口だけを埋めて、後で何度も別の人を葬られるようにつくられたんだ。はじめに葬られた人と、あとで葬られた人の関係はあまりわかっていなくて、この墓が家族の墓だ!という人もいれば、代々の偉い人の墓だ!という人もいるんだ。この時期の古墳は、中期に比べると小さくなったんだけど、それでも大きめの古墳には貴重な副葬品がたくさんおさめられているので、偉い人と偉くない人の違いはちゃんとあったようだね。
     有年では、平成21年度の測量調査で古墳の数が52基とわかった、有年牟礼の塚山古墳群が、今のところいちばん大きい古墳群だね。このうちもっとも大きな古墳は塚山6号墳で、長径約17・5mの土盛りの中に、長さ10・3m、幅1.9mの石室がつくられてるんだ。大きいね! 塚山古墳群は、ほかの古墳群に比べてそれぞれの古墳も大きいし、数も段違いに多いので、有年でも特に偉い人たちが葬られていたようだね。あと珍しいつくりとして「間仕切り」というものがあって、古墳の石室のなかを区切る壁がいくつかの古墳で見つかってるんだ。
     最近の調査では、古墳だけじゃなくてムラの様子もわかってきたんだよ。これまで有年の古墳時代後期のムラは、東有年・沖田遺跡や西有年の遺跡だけだったんだけど、有年原・クルミ遺跡と有年牟礼・井田遺跡のそれぞれでムラが見つかったんだ。
     有年原・クルミ遺跡では、竪穴建物跡と掘立柱建物跡が見つかったし、有年牟礼・井田遺跡では、竪穴建物跡4棟と鍛冶工房関連施設があったんだ。すごいのは鍛冶工房関連施設で、高い温度で焼き固まった「焼土面」があったほか、鍛冶工房でしか見つからない鞴の羽口や鉄滓などが見つかってるんだよ。このムラで見つかった竪穴建物跡は、柱が一つも見つからない珍しい形をしていたから、もしかしたらムラ全体が鍛冶に関係したムラだったかもしれないね。

    第6章 古代の集落-飛鳥~奈良時代-
     最近まで、有年にある飛鳥~奈良時代(約1,400~1,300年前)のムラは、有年原・田中遺跡、西有年・長根遺跡でしか見つかっていなかったんだ。
     でも最近の発掘調査では、有年原・クルミ遺跡と有年牟礼・山田遺跡で、土器やムラの跡が発見されたんだ。有年原・クルミ遺跡では、なんと「奥津家」と墨で書かれた土器が見つかった。この土器はほぼ全体が残っていて、字の形もとてもキレイだったから、奈良の都(平城京)から運ばれてきたと言ってもいいくらいのものなんだ。でも周辺を発掘してみると、残念ながらムラは見つからず川を埋め立てる時に混じった土器とわかったんだ。
     有年原・クルミ遺跡から東へ1kmほどの有年牟礼・山田遺跡では、ちゃんとムラが見つかった。平成23年度の調査で飛鳥時代の掘立柱建物群が発見されたんだよ。この時期の建物は、柱で床を高く上げて生活していたから、実は土器が見つかりにくいんだ。
     でもこの遺跡ではたくさんの土器が見つかったから、飛鳥時代の土器を研究するうえで、たいへん大事な調査になったんだ。

    第7章 水田化と大避神社-中世から近代-
     平安時代から鎌倉時代(約1,200年~800年前)になると、発掘調査で見つかる遺跡の数は増えるんだ。たぶん、人々がいろんな土地に住むようになって、弥生時代のような、特別な集住もしなくなったかじゃないかな。あと水田開発がたくさん行われたこともわかっていて、有年原・クルミ遺跡では大きな「あぜ」(大畦畔)が見つかってるんだ。
     このあぜは、最近まで道として使われていたんだよ。水田をたくさんつくるため、これまでにムラがあった場所はぜんぶ水田となって、大きな農業用の水路も流れていたんだ。
     一方の有年牟礼・井田遺跡では、鎌倉~室町時代にかけてのムラが見つかった。クルミ遺跡にくらべて、洪水を受けにくかったからかな? 簡単な鍛冶炉も見つかってるんだ。あと明銭の「永楽通宝」も見つかったよ。
     有年原・クルミ遺跡の北側、矢野川沿いには、むかし大避神社があったんだ。大避神社っていうのは、旧赤穂郡内に28もの神社があった、「秦河勝」を神さまとする神社だ。ここの神社は、明治38年3月18日に有年牟礼の八幡神社に合せて祀られることになって、無くなったと古い文献に書かれてたんだ。でも、いつ建築されたかわからなかったので、この大避神社跡を発掘調査してみたんだ。すると、江戸時代より古い地面は見つからず、川の砂の上にできていたことがわかったんだ。できた時代は江戸時代であったことがわかったんだよ。発掘調査では、神社が取り壊される前の祀りに使われていたお茶碗が見つかってるんだ。

    第8章 これだけ変わった!有年の歴史
     このように、最近の発掘調査によって多くの成果があがり、有年の歴史も大きく変わってきました。

    1 縄文時代後期の遺跡の発見
     クルミ遺跡では、東有年・沖田遺跡に続き2例目の生活跡を発見しました。有年牟礼・井田遺跡、有年牟礼・山田遺跡でも石器等が出土しています。
    2 縄文時代晩期の遺跡の発見
    市内で初めて、生活跡を発見しました。焼失建物である可能性が高く、今後の調査研究が期待されます。
    3 弥生時代中期の集落跡の発見
    有年牟礼・井田遺跡は区画整理事業に伴って初めて発掘調査された遺跡であり、焼失建物跡の貴重な調査事例となったほか、たくさんの遺物が出土しました。
    4 古墳時代初頭の集落跡の発見
    有年原・クルミ遺跡、有年牟礼・井田遺跡で、それぞれ竪穴建物跡を発見。市内で初の調査事例となりました。また有年牟礼・井田遺跡では、当時の大溝がたくさん見つかり、集落縁辺部の様相もわかりました。
    5 有年牟礼・山田方形周溝墓群の発見
     昭和63年度に一部の発掘調査がなされたものの、詳細が不明だった有年牟礼・山田遺跡を発掘調査したところ、大規模な方形周溝墓が2基見つかりました。多くの謎を残しており、今後の調査研究がまたれます。
    6 古墳時代中期の蟻無山1号墳の形状把握、船形埴輪の発見
     中期古墳として千種川流域最大の蟻無山1号墳。詳細な測量調査を行った結果、「造出付き帆立貝形古墳」であることが判明しました。また兵庫県内でも珍しい船形埴輪の存在などもわかりました。
    7 古墳時代後期の鍛冶を行った集落跡の発見
     有年牟礼・井田遺跡で見つかった竪穴建物跡は、すべて柱穴が見つからない珍しい構造であることがわかりました。また周囲では鍛冶炉、鞴の羽口、鉄滓などが見つかり、鍛冶を行っていることが明らかとなっています。竪穴建物は、こうした生業と深く関連した建物である可能性があり、類例を探索中です。
    8 市内随一の群集墳の発見
     これまで、市内における古墳時代後期の群集墳は、どれも同じような規模と考えられてきましたが、分布調査や測量調査により、塚山古墳群の大規模さが明らかになりました。また今回は触れませんでしたが、飛鳥時代の里長が葬られた可能性のある古墳も見つかり、播磨地域を代表する群集墳であることがわかりました。
    9 奈良時代の墨書土器の発見
    有年原・クルミ遺跡では墨書土器が出土し、奈良文化財研究所の協力により赤外線撮影を実施したところ「奥津家」と判読できることがわかりました。その意味についてはさまざまな説がありますが、今後の調査研究が必要でしょう

     このように、地道ながら測量調査や発掘調査を行うことで、有年の歴史はさらに明らかになって行きます。最近の成果を活かした研究は、まだ出発の途についたばかりであり、今後、資料の分析を行うことで、より有年のさまざまな歴史に光を当てることができることでしょう。

    協力者名  池田征弘 岸本一宏 室井正彰 横山博光 渡辺 昇 有年原自治会 有年牟礼自治会 有年横尾自治会 公益社団法人兵庫県まちづくり技 術センター埋蔵文化財調査部 独立行政法人国立文化財機構奈良文化 財研究所 兵庫県立考古博物館


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    うにゅちゃんが説明します!

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