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    平成24年度特別展「装飾土器と搬入土器-弥生時代の墓とマツリ-」報告


     ここでは、平成24年7月13日(金)~平成24年9月3日(月)に開催された特別展報告として、展示テキストを掲載しています。


    0 飾るということ

     土器は本来、水を入れたり、食物を煮たりするために作られた容器でした。しかし単なる容器という働きだけに満足できなくなった人々は、様々な飾り付けを始めました。
     単なる容器であるはずの土器に、なぜこのような飾り付けがなされるのでしょう。それは今がそうであるように、弥生時代にも「見た目」が欠かせないものだったのではないでしょうか。
     そしてその「見た目」は、現代の私たちが考えるようなファッション=流行というだけではなく、一部のものは、当時の宗教や習俗などに深くかかわっていたようです。当時の人々にとって、装飾や文様をつけることには、とても大きな意味があったのでしょう。

     さて、みなさんが縄文時代や弥生時代を思い浮かべたとき、どちらの時代の人々が装飾的な土器を作っていたと思いますか?おそらく、みなさんは縄文土器の方が飾り立てられていると思うでしょう。およそ正解です。しかし、実は縄文時代にも装飾をしない土器を作っていた時期や地域がありました。また弥生時代でも、たくさんの装飾がある土器を作っていた時代や地域があったのです。

     今回の特別展では、装飾が少ないと思われている弥生時代の中でも、例外的に特別な文様が施された、弥生時代後期(約2,000年~1,800年前)の東部瀬戸内地域(播磨・吉備・讃岐周辺)を取り上げます。そしてこの地域が、古墳時代の幕開けに果たした役割についても、考えていきましょう。


    1 弥生時代の飾られた土器

    (1)弥生時代中期以前の「飾られた土器」

     弥生土器はふつう、文様が少なくとてもシンプルだと言われています。しかし実は、弥生時代中期頃の土器について見ると、全国どこの地域にも文様が描かれた土器が見つかります。弥生時代中期の人々は、日常生活に、文様を施した土器を使っていたのです。
     発掘調査をすると、ムラの中でも装飾のある土器がよく出土することから、人々がこのような土器に特別な意味を持たせていなかったことがわかります。また、土器に描かれていた文様は、弥生時代前期から少しずつ変化していく過程がわかっており、単なる流行の変化と言っていいかもしれません。

    弥生時代中期までは、こうした文様の描かれた土器が、ムラの中やお墓など、どこでも見つかります。当時の人々は、ムラで日常的に使っていた土器と、亡くなった人に墓でお供えしていた土器とは、同じものを使っていたようです。

     時々、墓から見つかる土器には、底に穴を空けたものが見つかります。しかし、こうしたマツリのために特別な形の土器が作られることは、九州地域や東海地域などを除いて、ほとんどありませんでした。

    (2)弥生時代後期の「飾られた土器」

     弥生時代後期(約1,900年前)になると、ムラで日常生活に使っていた土器に、大きな変化が出てきます。土器に文様をほとんど施さなくなり、製作の跡がそのまま残されるようになってしまうのです。
     その一方で、とても念入りに装飾された土器が出てきます。よく装飾された土器の代表的なものには、水やお酒などを入れる壺と、壺をのせて高く捧げるための器台とがあります。これらは、とても大きくて丁寧に作られていることから、飾られた土器の中でも、もっとも大事なものと考えられていたのでしょう。特に飾られた器台や壺の出土量が多い東部瀬戸内地域がこの風習の中心地だったようです。

     赤穂市有年原・田中遺跡墳丘墓のように、日常生活にはほぼ使わないような大きさで、特別な文様、装飾のついた土器を墓に供える風習も、東部瀬戸内地域で発達します。器台は、弥生時代中期後葉(約2,000年前)に生まれた土器ですが、はじめはムラでしか使いませんでした。弥生時代後期になって、墓へのお供えにも多く使われだしたのです。この風習は、大阪府や奈良県などではほとんど見られず、東部瀬戸内地域の弥生人たち独自のものであったようです。

     このように、土器の形やどのような場面で用いられたかの違いを調べることによって、当時の人々が、どのような地域の人々と日常的に交流していたのかを知ることができます。しかも、同じような土器を墓に供えるということは、兵庫県南西部から岡山県にいた弥生人たちは、お互いの地域の習慣を見聞きしていたり、もしかすると、よその地域のお葬式に参列していたのかもしれませんね。

     赤穂にも、他地域から多くの弥生人が来ていたのでしょうか?それを調べるためにも、土器は良い材料となります。次は、「他の地域から運ばれた土器」について考えてみましょう。

    (3) 日常土器と非日常土器へ-土器の機能分化-

     日常生活に装飾性豊かな土器を使っていた弥生時代中期でも、終わり頃になると各地で小さな変化が起こり始めます。日常生活に使っていた土器を一回り以上も大きく作り、さらに特別な装飾を加えた土器が出現するのです。こうした動きは、岡山県で始まったとされています。

     弥生時代中期末のこうした動きは、後期になると新たな局面を迎えます。日常生活の土器がシンプルなものになっていく一方、特別な土器は装飾性豊かになっていくのです。

     この変化が最もよく見えるのは、水や酒などを入れるための壺と、壺を載せて高く捧げるための器台でした。器台は、弥生時代中期後半(約2,000年前)から全国各地で使われ始めますが、大型の器台は主に西部瀬戸内(広島県~愛媛県中心)と東部瀬戸内(岡山・香川県~兵庫県南西部中心)で、それぞれ地域性を持ちながら、装飾がなされ、また大型化していきました。

     一方、近畿地方では、器台の出土数自体が瀬戸内地域と比べると少ないため、壺と器台を用いたマツリを行うという習慣は、東部瀬戸内周辺で盛んだったようです。


    2 弥生終末~古墳初頭期の運ばれた土器

    (1)ムラに運ばれた土器

     弥生時代の終末期~古墳時代初頭期(約1,800年前)になると、全国各地の土器が広く運ばれるようになります。赤穂市周辺の遺跡では、岡山県、香川県の高松平野、島根県や鳥取県といった日本海沿岸地域、大阪府の大阪平野などで作られた土器がたくさん見つかっています。

     これら運ばれる土器の多くは、煮炊きをするための薄い甕であり、壊れやすいために持ち運ぶことがとても難しいものです。貯えるための壺ではなく煮炊きに使う甕が動くことは、人の移動があったことを示すと考えられています。また、こうした壊れやすい甕を遠くに運び込むことができる運搬技術が発達したことも、背景にあるのでしょう。

    (2)墓に運ばれた土器

     それまで関わりのなかった地域から、多くの人々が訪れ、交流が始まったことで、弥生人たちの社会にも少しずつ変化が訪れます。

     例えば、香川県や岡山県などから、巨大な土器の棺おけが運ばれ始めます。こうした土器は、ムラでの日常生活用とは考えにくく、埋葬やお葬式のためにわざわざ大きな土器を特別に運び込んだに違いありません。

     これは、人の移住に伴って婚姻関係ができ、他地域の方法で埋葬が行われたのだという説もありますが、別の説として、埋葬に使う土器として特別な価値があった可能性や、政治的な意図で運ばれた可能性も捨てきれず、多くの謎が残ります。
     では赤穂のお墓では、どのような変化があったのでしょうか。

    (3)赤穂の墓からみる社会の変化

    ■有年原・田中遺跡

    有年原・田中遺跡の1号墳丘墓は、弥生時代後期(約1,900年前)に築かれたもので、突出部と陸橋部をもつ、直径約19mの円形周溝墓です。円形の墓は、東部瀬戸内地域で弥生時代前期(約2,500年前)に生み出され、播磨に定着した、いわば「東部瀬戸内系の墓」。

     ここには、岡山県から兵庫県南西部に多く見られる、飾られた壺と器台が供えられていました。このことから、弥生時代後期には、赤穂の人々は岡山県の人々と盛んにかかわりをもっていたと考えられています。この遺跡は、後の前方後円墳につながる墓の形と、出土土器の重要性から、前方後円墳を生み出した地域の一事例として、大変有名です。

    ■有年牟礼・山田遺跡

     一方、弥生時代終末期~古墳時代初頭(約1,800年前)のお墓である有年牟礼・山田遺跡の1号墳丘墓は、陸橋部を2つもつ、長辺約19mの方形周溝墓です。方形の墓は、大阪湾沿岸地域で弥生時代前期(約2,500年前)に生み出された、いわば「大阪湾岸系の墓」。

     ここには、大阪府から運ばれてきたと思われる大型壺と装飾壺、岡山県から運ばれてきた甕、そして地元産と考えられる装飾器台などが供えられていました。また、この方形周溝墓は、近畿地方の中でも最大級であり、さらに大型の方形周溝墓としては最西端になるもので、この方形周溝墓の重要性を物語っています。

     有年牟礼・山田遺跡の方形周溝墓から出土した装飾器台は、有年原・田中遺跡のものによく似たもので、時代の変遷を追うことができます。しかし、それ以外の大型壺、装飾壺は、赤穂では見られない形をしていて、いずれも大阪府方面から運ばれてきたものと考えています。墓の形とお供えの土器が大阪湾沿岸地域との関わりが強いことは、東部瀬戸内的な有年原・田中遺跡と比べてみると、対照的であると言えるでしょう。

     このように、時代によって深く関係する地域が、西から東へ大きく変化する事例は、これまで東部瀬戸内地域でも見つかったことがなく、これから議論がなされることとなりますが、まさに東部瀬戸内と近畿地域の境界にある赤穂において、こうした事例が発見されたことは、当時の社会の変化を語るうえで重要です。

     では、その後の社会がどのように変化していったのでしょうか。ムラの状況から見てみましょう。


    3 古墳時代前期の社会変化と土器

    (1)前方後円墳でのマツリに供えられた土器

     弥生時代終末期(約1,800年前)には、全国各地で様々な墓の形、埋葬の習俗がありましたが、古墳時代前期(約1,700年前)になると、有力な墓のほとんどは前方後円墳という決まった形になります。墓の形だけではなく、石室や木棺といった埋葬施設、そして方法や副葬品なども似通ったものになるため、古墳時代前期には、前方後円墳という墓とそこで行われるマツリが統一されてしまった、とも考えられています。

     最近の考古学研究では、前方後円墳でのマツリは、弥生時代のさまざまな地域の埋葬の方法が混ざり合うことで生まれた、とされています。たとえば、古墳の周りに立てられる円筒埴輪は、主に岡山県で作られた特殊器台が変化したものです。また、古墳の斜面に貼られた葺石は、山陰や四国地方の影響が考えられます。古墳の副葬品として有名な鏡は、九州地域の文化をとり入れたと評価されています。

     しかし、播磨を見てみると、こうしたマツリが完全に統一されてしまった、というわけではないようです。岡山県の埋葬方法が使われた古墳もあれば、島根・鳥取県の葬式の方法が使われた古墳もあるというように、いろいろな地域の埋葬の方法が見られたようです。特に、墓に供えられた土器から、それがよくわかります。

    (2)山陰文化の波及

     古墳時代初頭~前期ころのムラから、山陰地域の土器が見つかることはそれほど珍しくありませんが、最近の研究では、小型丸底土器、鼓形器台、山陰系円筒土器といった特別な土器が、古墳や墓でのマツリに使われていたことがわかってきています。

     播磨では、代表的な前期前方後円墳である、丁・瓢塚古墳(姫路市)や、円筒形器台が見つかった龍子三ツ塚1号墳(たつの市)などで出土しており、古墳時代前期には主に吉備の文化が波及するとしていた古墳時代の播磨の評価を、大きく変えることになりました。

     なお東に隣接する摂津地域では、神戸市の代表的な前期前方後円墳である西求女塚古墳や処女塚古墳で、また北の丹波では、首長墓と目される内場山墳丘墓(篠山市)でも、山陰系土器が見られます。山陰系土器が、各地の主要な墓でのマツリに使用されていた実態が、ようやくわかってきたのです。

     これより以東では、久宝寺遺跡(八尾市)の方形周溝墓群、御旅山古墳(羽曳野市)といった遺跡で点的に見られますが、奈良県に入ると、纏向遺跡方形周溝墓(桜井市)、波多子塚古墳(天理市)、西殿塚古墳(天理市)、東殿塚古墳(天理市)など、数多くの初期古墳で認められ、山陰の埋葬に関する習俗が、播磨だけでなく、ヤマト政権中央にまで及んでいたことがわかってきました。

    (3)土器様式の統一

     墓でのマツリに各地の要素が見られた一方、一般的なムラでは、さまざまであった各地の土器の特色が失われ、畿内の土器と似たものになっていきます。
     例えば九州地方でさえも、大阪府や奈良県と近い形の土器を使いだすのです。

     縄文時代以来のバラエティ豊かな土器文化は、古墳時代になりかなり統一されてしまいました。
     日本の歴史を見たとき、この土器の統一の意味はたいへん大きく、重要ですが、その理由についてはよくわかっていません。
     ただ、日本列島の多くの地域が、近畿地域と強いつながりを持ち始めたことは間違いないでしょう。


    4 東瀬戸内地域が果たした役割

     最後に、もう一つ重要なことに触れておきます。東部瀬戸内地域には、弥生時代後期から、前方後円墳のプロトタイプとも言うべき墓がいくつか築かれています。突出部のある墓、前方後円墳の前方部のようなものがある墓、積み石で前方後円形に築いた墓など、枚挙にいとまがなく、東部瀬戸内地域が、前方後円墳を生み出した地域であるという評価は、否定しがたいように思われます。

     これまで見てきたように、東部瀬戸内地域ではじまった、器台と壺をセットで使った墓でのマツリ、装飾土器の使用、そして前方後円形の墓を築く風習は、古墳時代前期のヤマト政権に引き継がれることとなりました。

     こうした風習は、弥生時代後期までの比較的狭い地域内での交流から、その後の広い地域での頻繁な交流に至り、一挙に広まったものであると言えます。そして、交流範囲が日本列島のほとんどにまで広がることで、結局のところ、政治のつながりが生み出され、本格的な古墳時代を迎えるのです。

      赤穂市には、こうした社会の変化の様子を明確に示す、有年原・田中遺跡と有年牟礼・山田遺跡の墳丘墓があります。東部瀬戸内的な墓とマツリから、近畿的な墓とマツリへの劇的な変化は、東瀬戸内地域内でも大変珍しいものであり、その激動は、まさしく赤穂という地の重要性を物語っているのでしょう。

     装飾土器と搬入土器は、こうした時代の大きな社会変化を物語るための、重要なキーワードになるのです。


     なお、今回展示した有年牟礼・山田遺跡は、平成23年3月の発掘調査で見つかった、最西端の大型方形周溝墓です。溝内から出土した角礫や河内からの大型搬入土器、吉備からの搬入土器、古墳時代初頭の装飾器台など、検討しなければならないことが多くあります。今後、正式な調査報告を刊行することで、赤穂ひいては播磨の歴史を語る重要な基礎資料となることでしょう。

     最後になりましたが、本特別展の開催にあたり、お世話になった方々、機関のご芳名を記載し、感謝の意を表します。

    大久保徹也、河合 忍、岸本一宏、岸本道昭、柴田昌児、寺沢 薫、新納 泉、乗松真也、平井泰男、福井 優、藤井 整、松木武彦、松村さを里、森岡秀人、若林邦彦 上郡町教育委員会、佐用町教育委員会、岡山県吉備古代文化財センター、岡山県教育委員会、岡山市教育委員会、岡山大学文学部考古学研究室、宍粟市歴史資料館、高松市教育委員会、たつの市教育委員会、たつの市埋蔵文化財センター、姫路市埋蔵文化財センター兵庫県立考古博物館、真庭市教育委員会、御津町郷土歴史資料館、八尾市埋蔵文化財センター(50音順)


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