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    特別企画展「松岡與之助医学博士没後80年―松岡眼科病院と有年文化活動をふり返る―」報告


     ここでは、平成24年5月25日(金)~平成24年7月9日(月)に開催された特別企画展報告として、展示テキストを掲載しています。


     有年考古館の玄関から蟻無山方向に目をやると、木立の中に銅像があります。当地・有年楢原新田に生まれ、松岡眼科病院を開業し、地域の医療に力を尽くした松岡與之助博士(明治21(1888)~昭和7(1932)年)を顕彰したものです。松岡眼科病院の敷地内に建てられたこの銅像は、松岡先生頌徳思慕会という、松岡病院の患者達によって作られた会の拠金を基に造られました。銅像建設は献身的に地域の医療に尽くした博士の恩に感謝する患者達の思いによるものでした。博士は医療活動にと留まらず、「郷土研究」という研究雑誌を創刊するなど有年の文化活動に大きく貢献しました。有年考古館を設立した、弟松岡秀夫博士(明治37(1904)~昭和60(1985))の活動も、與之助博士の存在に大きく影響を受けています。松岡與之助博士とは、どういう人物で、どのような人生を送られたのでしょうか。彼の願いはどのように継承されたのでしょうか。没後80年にあたり、彼の足跡をたどってみることにしましょう。

     この特別企画展では、與之助博士の孫にあたる松岡徹、壽子御夫妻、與之助博士次女西田美枝子氏の全面的なご協力を得ました。この場をお借りして、厚く御礼申し上げます。展示史料は注記のないものは全て松岡徹氏所蔵のものであることをおことわりしておきます。


    ■幼少期~中学時代

     松岡與之助は、明治21(1888)年10月25日、赤穂郡有年村楢原(現在の赤穂市有年楢原)に生まれました。松岡家は農業のかたわら染物業を営んでいました。父兼助は同郡高田村宇野山(現在の赤穂郡上郡町宇野山)より松岡津右衛門の養子となり松岡家を相続しました。與之助は兼助、母コトの長子で、後に、半助(明治26(1893)年生)、チカ(明治28(1895)年生)、圭三(明治33(1900)年生)、秀夫(明治37(1904)年生)、ヒサヱ(明治41(1908)年生)が生まれました。

     與之助は赤穂郡有年村立原尋常小学校に入学しました。明治5(1872)年、学制が公布されて以来、教育に関する施策は教育令、小学校令と改定が繰り返されました。当初は就学率の低さが指摘されていましたが、明治の中頃にもなると小学校入学は当然の通過儀礼という意識が浸透して来ました。與之助の小学生時代は明治23(1890)年に改正公布された小学校令に基づくものでした。尋常小学校の修業年限は4年で、明治31(1898)年3月に原尋常小学校を卒業しました。その際に渡された「卒業生徒心得書」には「子ハ幸ヒニ萬世一系ノ皇室ヲ戴ケル大日本帝國ニ生レタレハ其皇室ニ對シテ至誠ヲ盡シテ大恩ニ報イ奉ルヘシ」...と記されており、改正小学校令と同時に発布された「教育ニ関スル勅語」を強く反映しています。「帝国臣民」の育成を図る戦前の教育の基盤が作られようとした時期に與之助は学校教育を受けることになります。その後、與之助は、上郡村(現在の赤穂郡上郡町上郡)に設置された赤穂郡上郡村外五ヵ村学校組合立上郡高等小学校(修業年限4年)に進学します。当時はまだ有年に高等小学校が無く(明治36(1903)年に有年尋常高等小学校が開設)千種川の土手沿いに徒歩で通学しました。時おり、注文の染物を持参したり、途中の高田村與井(現上郡町與井)のあたりで染物を頼まれたりといったことがありました。在学中の成績は「上ノ上」という抜群のもので、明治35(1902)年3月の高等小学校卒業後、兵庫縣立龍野中学校への入学を果たしました。

     中学校の開設についても、明治19(1886)年4月の中学校令公布以降、紆余曲折が続きました。姫路以西の播磨地域の住民にとって念願の中学校(尋常中学校)が設置されたのが明治30(1897)年のことで、明治34(1901)年5月1日より兵庫懸立龍野中学校の名称が使われるようになりました。與之助が入学した時(第6回)の志願者が380名、その内76名が入学するという狭き門でした。與之助のように遠方の生徒に対しては寄宿舎(養浩寮、明治32(1899)年設置)が用意されていました。当時の中学校の教師達はそれぞれの分野に精通している個性的な人物が集まっていました。英語・倫理・西洋史を担当した山崎来代矩はスパルタ式の教え方で、廊下で彼の靴音を聞いただけで生徒が急に静かになったそうです。しかし、生徒の成長を考慮した真摯な態度は龍野中学校の大黒柱的存在で、彼がその後、群馬縣立高崎中学校に転じた時は惜しむ声が大きかったそうです。当時入学した一年生全員に金銭出納帳をつけさせ、定期的に担任教師に提出させていました。與之助も「中学校在学中、入費記載帳」を残しています。それによると「クツ2円60銭、帳面8銭、算術の本75銭…」と当時(明治35(1902)年)の物価が正確に記されています。1カ月に1円の授業料が支払われていますが、中学生の経費として年間30円程度かかりました。学費として年間7~8俵を充てることが出来る程度の農家であることが必要であると言われましたが、龍野中学校の生徒の保護者は農家が多かったようです。父・兼助は実直な人柄で家業の染物業、農業に日々励んでいました。研究熱心な性格で、野菜作りにも熱心に取り組み、上郡の野菜の品評会で上位に入るほどの腕前でした。子ども達への教育費は惜しまず、與之助をはじめ弟妹もそれぞれ上級学校へ進学させました。

     小学校と同様に中学校も明治政府の教育政策を反映した過渡的な時期に当たります。龍野中学校の校訓は「報国尽忠」「礼儀廉恥」「身体錬磨」で、体育の際には兵式体操、挙手注目の敬礼法が指導されていました。明治31(1898)年姫路に第10師団司令部が置かれると軍事演習の見学などが身近なものとなり、銃剣なども授業で積極的に行われるようになりました。在学中に勃発(明治37(1904)年)した日露戦争の影響は大きく、卒業生の進路も陸軍士官学校・海軍兵学校などの軍関係の学校も増えて来ました。カリキュラムについては当時の校長の裁量に依る所が大きかったようです。中学校開校当初は漢学者も多く、生徒の漢文のレベルは相当高かったとされています。体育も軍事的な色彩の強いものだけでなく、テニス、野球、水泳なども取り入れられました。初代校長・佐藤弘毅はテニス(ローンテニス)の採用に熱心で、教師の中にも積極的に取り組む人がいました。次に、與之助の中学校時代について見ていきましょう。普段は寄宿舎あるいは下宿(個人宅)で生活し、長期休暇前の土曜日の午後などに帰省していたようです。明治23(1890)年に山陽鉄道が有年駅まで開通し、龍野~有年間の汽車を利用することもありました。前にふれた出納簿によると、当時(明治35(1902)年)の汽車賃は12銭です。時には徒歩で帰省することもあったようで、「ミカン水2本1銭、小犬丸村」の記述から現在の県道5号線を通って帰ったことがうかがえます。校内の與之助の足跡をたどる手がかりとして、明治35(1902)年に発足した同窓会の会誌『龍雛』があります(第4号以降は校友会誌)。その4号に卒業式を控えた明治40(1907)年2月9日に開かれた講演会において「談話」として発表した記事が載っています。演題は「北は南より強し」というもので、南に位置する国よりも北の国の方が戦争など強い例を多く示し、それにもかかわず日露戦争で日本が勝利したことから、国の位置、規模にかかわらず国民の努力が重要であることを発表しました。それに対し、文芸部長は以下のように記しています。

    (前略)音声大に、且強く、力あり、弁流暢にして態度大にあがる。其論旨の如きは、実に明瞭、論拠確実、記者の不文を以てしては、其活躍の状をうつす能はず。好個の弁士、それよく自愛せよ。談話中の白眉。(『龍雛』第4号 龍野中学校友会 明治40(1907)年5月31日 40頁)

     その賞賛ぶりからも、堂々とした演説の様子がうかがえます。

     翌月の3月25日は卒業式で、6回生76名入学した中で卒業までこぎつけた者は32名。半分以下という厳しさでした。当時の進級の厳しさに加え、経済的事情、健康状態から断念せざるを得なかった者もいたに違いありません。心身両面とも充実した生活であったことは、卒業の際に受けた皆勤賞からもうかがえます。與之助の前途は新たな局面を迎えます。中学校時代を締めくくるに当たって、彼が交友会誌に記した「座右之箴」を紹介します。與之助の人柄、態度を見事に反映したもので、その後の生き方を象徴しているように思われます。


    ■医学修業時代-京都第三高等学校・京都帝国大学・長崎医学専門学校-

     明治40(1907)年7月、與之助は第三高等学校第三部(医学進学課程)受験の為に滞在している岡山市(当時・第三高等学校第三部の分校があった。後の岡山医科大学へと発展する)から、父兼助にハガキを送っています。自らを奮い立たせる文面で決意が伝わってきます。見事合格を果たし、京都での生活が始まりました。当時の高等学校は9月入学7月卒業という現在話題になっている秋入学であったことがうかがえます。住まいは第三高等学校寄宿舎南寮、全国から集まった俊英(しゅんえい)7名が同室でした。課外活動として短艇部(ボート部)に所属、選手としての写真も残っています。高校時代は母校との連絡も密で、龍野中学校校長より修学旅行(京都)の宿泊先を知らせるハガキも残っています。明治43(1910)年7月、第三高等学校大学予科第3部を卒業し、いよいよ本格的な医学の修業が始まります。

     第三高等学校と京都帝国大学とはほぼ同じ場所に立地しているため、生活にはほとんど変化がないように思われます。実習等の授業もあり、比較的自由な生活を謳歌していた高校時代に比べ多忙な毎日であったと想像されます。大学卒業後専門分野を決定することになりますが、與之助は眼科を選択しました。比較的貧しい患者の多い眼科を専攻したことは彼の医師としての姿勢であり、民衆の医療事情を考えた上でのことでもあったのでしょう。また、指導教官となる浅山教授の人柄によるものも大きかったようです。弟秀夫は師との出会いについて「…浅山先生のお話程身に染みたものはないと何時も言ってゐた。どんなお話だったか精しくは聞きもらしたけれど、とても長時間に亘ったので後で手術の準備を整へて先生の御出を待ってゐられた当時の医局長盛先生に叱られたと言ってゐた。」(『松岡與之助論文集』序にかへて より)と記しています。ところが、師と仰いだ浅山教授は大正4(1915)年急逝、その後を受けた市川清教授が與之助の指導に当たりました。秀夫の表現によれば「浅山先生によって孵化せられ、市川先生によって育てられた。」と言えます。大正5(1916)年に医学部助手、翌年には講師と順調な研究生活が続けられました。その間、ゑつと結婚、長女綾子も生まれ(大正5(1916)年5月7日)家庭的にも充実した毎日でした。学会誌にも論文を発表するなど、熱心に研究に励んでいました。網膜のグリコーゲンに関する研究のために使用した数千枚のプレパラートが残されています。

     慣れ親しんだ京都での生活から、次なる展開を迎えることになります。大正7(1918)年2月12日、長崎医学専門学校教授に任命され、長崎の地に赴任しました。同時に県立長崎病院眼科部長も委嘱され、長崎の眼科学におけるリーダーとして研究及び学生の指導、診察と忙しい日々が続きます。長崎は江戸時代では唯一といっていいほどの医学の盛んな地であり、多くの医学者、科学者の若い頃の修業の地として有名です。眼科においても、優秀な外国人教師が集まり、最先端の研究が進められていました。当時の長崎医学専門学校の同僚には歌人として著名な斎藤茂吉(明治15(1882)年~昭和28(1953)年)が精神科教授(大正6(1917)年12月3日~大正10(1921)年3月)として勤務していました。特別に交流があったことはうかがえませんが、「長崎くんち」か何かの祭の折に一緒になり、長女綾子が「モキチ、モキチ」と片言で語っていたことが伝えられています。長崎赴任中は弟が遊びに来たり、郷里の家族との交流も続きました。別府、阿蘇などの九州の観光地の絵ハガキが沢山残されていることからも、休暇の際には旅行することもあったのでしょうか。そうした充実した日々も続きませんせした。病を得て大正10(1921)年2月23日休職を命ぜられ、同年8月20日退職することになりました。医学研究者としての最前線の現場から離れざるを得なかった與之助の心情を察すると、その無念さは想像以上のものだったに違いありません。弟秀夫も「眼科医学者としての前途を放棄せざるを得なかった阿兄の心情を思ふ時気の毒でならない」と記しています。


    ■松岡眼科病院の設立

     家族とともに郷里に戻った與之助は、次第に健康を回復しました。静養中の與之助の元には長崎の同僚からの健康を祈念する内容や長崎の状況についての相談などの書簡が多く残されています。こうしたことからも與之助の長崎での献身的な仕事ぶりがうかがえます。與之助の名声は郷里の人々にも広く知られており、診察の依頼が寄せられるようになりました。そこで、大正12(1923)年7月1日より自宅において医業を開始することになりました。現在でも当時、薬を渡していた棚の名残を見ることが出来ます。自宅での診察の傍ら、與之助は京都、長崎での研究をまとめ、学位論文の作成にとりかかります。当時の衛生状態等の理由から患者の多かったトラホーム(トラコーマの旧称、クラミジア感染による結膜炎)についてのものでした。忙しい合間に執筆をまとめ、大正13(1924)年11月、京都帝国大学より医学博士の学位を得ました(「トラホーム斑点状白色角膜溷濁」)。並行して自宅前の田を用地とし、病院が建てられることになりました(病院用地の田は収穫高の多い良田だったそうです)。隣の松岡重太郎に建築を依頼、設計は與之助が行ったようです。病院は完成し、大正14(1925)年1月1日より松岡眼科病院がスタートしました。その建物の雰囲気は長崎医学専門学校附属病院の影響を受けていると思われます。道路を隔てた南側には入院病棟も建設されました。白内障の手術なども行っていたため、入院施設が必要だったのです。当時の病院は現在の様に休診日も無く、急患も昼夜関係なく対応していました。入院患者を抱えていたため、休診ということはありませんでした。次女美枝子の記憶の上では、教專寺(松岡家の檀那寺)の御遠忌の際、にぎやかに稚児行列が行われた時に午後休診になったくらいでしょうか。母コトは熱心な浄土真宗門徒で、朝夕の勤行を欠かしませんでした。病院は、職員、看護婦(当時)も多く勤務していたため、その食事作りなど家族も協力して行っていました(看護婦養成所も設置されていました)。與之助は酒、煙草をたしなむこともなく、読書することが趣味といえるものでした。唯一の「道楽」といえば、本を集めることで、医学雑誌など外国の文献も含め創刊号から揃えていました。江戸時代の珍しい医学書も購入しています。妻や母は、「本ばかり買う」とこぼすことも多かったそうです。また、病院内には「研究室」も作られていました。実験器具、薬品にあふれたその部屋は他の人には「こわい所」という印象が強かったようです。火を出すこともあるかもしれないという心配から、父兼助は研究室のすぐ外に小さな池を作り、万が一の時の為に備えていました。

     松岡眼科病院での與之助の評判は、広く知られることとなります。與之助の診察ぶりについて、「松岡先生頌徳思慕会趣意書」は次のように記しています。(前略)勝レサセラレザル御健康ヲモ患者ニ接セラル其ノ病者ノ診療ニ当ラルルヤ貴賤貧富ノ差別ナク厳正犯スベカラザル御態度ト御仁慈溢レタル御熱誠トヲ以テ常ニ変フル事ナク確固ナル信念ノモトニ秘術ヲ尽サル様真ニ俗界ヲ去ッテ神域ニ入レルノ感ナクンバアラズ(後略)

     近隣に留まらず遠方からも多くの患者が集まり、現在の有年考古館から荒神社に至る道は賑やかでした。弟秀夫は與之助と同様に京都帝国大学医学部に進学し兄と同じ眼科を専攻します。同じ市川教授門下となり、帰省時は病院を手伝うこともありました。秀夫は、「私が市川先生の教室に御厄介になる様になってから阿兄の私に対する態度が一変して従来の親子の様な関係から一躍非常に親しい同僚と言ふ様に取り扱はれる様になった。休暇で帰って行くと、お前は新しい眼科学んでゐるのだからと言って色々相談も受ける様になった。反対に私には阿兄の学識が漸く分かってきてかへって敬う様になったので、妙な対称であった。(後略)と記しています。

     患者達の與之助に対する敬意は「松岡先生頌徳思慕会」という形で結実します。松岡病院の患者達が、一口50銭という醵金を集め、銅像を建立しようという声があがりました。昭和5(1930)年2月のことでした、與之助は病院での診察だけでなく、地域の衛生状態の向上等、生活環境の改善にも取り組みました。昭和6(1631)年1月に創刊を始めた『郷土研究』第4号の「本年度徴兵検査成績」によると、昭和6(1631)年度の赤穂郡徴兵検査対象者728名中トラホーム患者266名の高い率を示していますが、その内有年村50名についてはトラホーム患者9名という状況でした。記事によるとトラホームは減少傾向にあることから、與之助の尽力があったことがうかがえます。また学校医としても精力的に診察を行っています。原尋常小学校奥吉重清校長(当時)により、小学校児童のトラホーム全滅をめざし児童を奉仕的に治療したことに対する感謝の気持ちが記されています(『会報・第一号』原尋常小学校同窓会編 3頁)。

     昭和7(1932)年5月7日、弟秀夫の結婚式の後頭痛を訴え、その後岡山医科大学附属病院に入院、6月3日には帰らぬ人となってしましました。(享年45歳)。松岡眼科病院の大黒柱が失われてしまった驚きは家族はもとより患者達にとって大きな損失でした。診察は母校京都帝国大学の応援も得、7月からは弟秀夫が病院を引き継ぐことになりました。與之助銅像建設の話は進められ、昭和8(1933)年5月27日除幕式が行われました。碑文は恩師市川清博士によるものです。かって市川教授在職15周年記念に教室を代表して祝辞を述べた愛弟子松岡與之助の碑文を書くとは、予想だにせず、教授にとっても残念であったと思われます。

     その後の松岡眼科病院のことに少しふれておきましょう。與之助と同様、弟秀夫も精力的に診察を続け、眼科として松岡病院は有名でした。有年駅に降りた患者達は徒歩で病院に向かい、行列が出来るほどでした。外部の医師の応援も得て耳鼻科の診察も行ったこともありました。更に、與之助の長女綾子が父の遺志を継いで医学専門学校に進み眼科医としての道を歩み始めていました。叔父秀夫の応援も得て、綾子は松岡病院(のち松岡医院)を継承し、結婚した夫、敏夫(内科医)とともに有年の医療に尽力しました。敏夫はかって與之助が教鞭をとった長崎医科大学で医学を修めました。地域の人々は親しみを込めて「綾子先生」「女医先生」と呼んでいました。地元、原小学校、有年小学校、有年中学校校医も敏夫とともに長く勤めました。平成17年1月7日、綾子は亡くなり、松岡病院は幕を閉じました。病院は同年3月閉院となりましたが、地域への医療活動という点では、綾子の長男、徹(眼科医師として岡山県内で勤務)、その妻壽子(耳鼻咽喉科医師として上郡町内で勤務)へと引き継がれています。更に、赤穂市内では與之助の三女暢子の長男周が坂越において澤田医院を開業しています。


    ■有年における文化活動―『郷土研究』の創刊

     明治41(1908)年10月、政府は戊申詔書を発布しました。日清・日露戦争の勝利に酔うことなく勤倹貯蓄、産業奨励に励めといった内容で地方の自力向上を促すものでした。これを基に地方改良運動が展開します。従来の風俗にとらわれることなく、合理的に農業政策、町村合併を促進させることを奨励し、地方の生産力の向上を図ろうとしました。旧来の風俗等が否定されようとする風潮の中で、地域の歴史をふりかえり、今一度足元を見直そうとする動きも出て来ました。

     こうした社会情勢をふまえた上で與之助の活動を見ていくことにしましょう。與之助の文化活動を象徴しているものが、昭和6(1931)年1月に創刊された研究雑誌『郷土研究』です。病院内に郷土研究事務所を設置し、編集・発行にあたりました。『郷土研究』は地方自治、郷土史、産業、自然科学、保健衛生、文学など内容が多岐にわたっています。「郷土を知れ!郷土を誇れ!郷土を愛せ!」のスローガンを掲げ、地域の住民とりわけ青年層の覚醒を願うものでした。『郷土研究』は有年村全戸に配布され、原稿を多く募りました。現在の住民に留まらず「出郷の諸君に特に乞願す」として郷土を離れた出身者に対しても「生れた故郷育てられた自然は一つであり親を同じうした兄弟同志」として、雑誌への参加を求めています(『郷土研究』第一年第一号16頁)。與之助の郷土史研究については、同郡矢野村の郷土史家小林楓村(久之助)の影響を見ることが出来ます。『郷土研究』第一年第二号の「播磨鑑ニ見エタル有年村」の中で、「私ガ大正十一年七月矢野史談会ヲ経営シ謄写刷ノ会報ヲ発行シ名前ヲ郷土研究トシマシタ。名前ノ同ジノガ何ヨリ嬉シクアリマス。然シ今日ハ改メテ「やの」ト致シテヰマス。」と記しているように、近隣の先駆者に大いに刺激を受けたと思われます。同号に與之助は「有年村楢原新田の郷土史的考察」と題して、古文書を分析した論文を発表しています。與之助の歴史に対する興味はすでに、龍野中学校時代に広く知られており、講演会の批評の中で、「得意の歴史的評論をなして…」と記されています。(「龍雛 第4号」39頁)。與之助の論文は記名のものだけではありませんでした。「愛村生」「新田生」「青洲生」のペンネームのものは全て輿之助が書いたものです。歴史・自然科学・医学と多岐にわたる内容を忙しい合間に執筆していたと思われます。推敲を繰り返した大量の原稿が残されています。『郷土研究』の印刷所は高田村與井(上郡町與井)のアサヒ印刷所とありますが、次女美枝子の思い出として、打ち合わせか校正の為に妹暢子と一緒に姫路に連れて行ってもらったことがあります。ほの暗い廊下のような所で座って待っていただけで、他の所に連れて行ってもらった訳ではありませんでしたが、忙しい父との数少ない外出として心に残っています。

     『郷土研究』の発行と並行して、弁論大会も行われました。青年団による弁論大会も当時盛んに行われていましたが、與之助は松岡病院弁論部をつくり、「郷土青年弁論会」を開催しました。昭和5(1930)年2月11日(建国祭)の夜に松岡病院講堂で第1回の郷土青年弁論会が開かれ、22題の演題が挙がっています(『郷土研究』第一年第一号13頁)。第2回は昭和6(1931)2月11日に行われ、有年村、高田村の青年約100名が参加しました。その際、農村青年問題座談会も開かれ青年の勉強方法、体育競技、娯楽芸術作品、社会奉仕、宗教、産業といった項目について3時間余り活発に議論されました。その後、弁論大会に移り20題の演説が披露されました。「息をもつかず火の如き熱烈さを以って野次拍手の中に相続き、遂に夜を徹し翌朝に及んで終わった」(『郷土研究』第一年第二号15~16頁)という盛況ぶりでした。

     與之助は、松岡病院の施設を会場として提供するだけでなく地域のために広く開放しました。自然科学研究のために院内の研究室を開き顕微鏡、ミクロトーム、孵卵器、温室等機器、薬品を自由に使用してもよいこととしました。また、図書の閲覧、貸し出しも行っていました。自らの郷土に関する研究も進めるかたわら、この『郷土研究』を青年達が利用し、更なる飛躍をはかることを願っていました。第三号の「あと書き」で「段々と号を追ふて青年諸君の投稿者が増加する傾を見るやうになりましたことは郷土将来の為めによろこぶべきであり誠に心強よい感がします」(『郷土研究』第一年第三号20頁)。と青年層の意識の高まりに期待を寄せています。與之助にとって、郷土はかけがえのないものでした。「私にとって楢原新田は真の郷土である。自分の生まれ、培育せられ、生活し、そして土になるべきその土地である。」(『郷土研究』第一年第二号12頁)に彼の思いが込められています。『郷土研究』第二年第一号(5号)の最後に、昭和7(1932)年2月11日に第3回の弁論大会の広告が出ています。第3回の大会もさぞ盛況だったことと思われますが、その様子を知ることは出来ません。第6号の編集のさなか病に倒れ、発行することなく帰らぬ人となってしまったからです。『郷土研究』第二年第一号が最終号となってしまいました。周囲はもとより與之助自身、予想だにしなかったと思われます。有年村前村長小河治郎吉にあてた原稿依頼もそのまま残されています。少しずつ軌道にのり始めた矢先、郷土の青年活動の羅針盤ともいえる與之助を失った痛手は相当のものだったことでしょう。

     與之助の『郷土研究』の発刊の動機、目的とするところは人物の養成にありました。昭和6(1631)年4月、岡兵庫県知事が有年村を訪れた時に述べた「農村の救済は人である。将来人物養成に努力せん」の言葉に感激し、農村救済問題が金銭物質よりも先ず人物の養成によって解決せらるるものなるを訓へられたるところに吾人の発奮激励を感せしめられる」と記しています(『郷土研究』第一年第二号20頁)。郷土をになう人材の育成、そのために郷土を知り、誇り、郷土を愛するのであると訴えていたことが理解出来ます。與之助の夢であったという幼稚園の建設は、こうした郷土をになう人材を幼少期の頃から育成したいという願いによるものであったと考えられます。

     與之助が亡くなった昭和7(1932)年は、満州国の建設、五・一五事件と軍部の台頭、戦時体制への道を歩み始めた年でした。自力更生運動が行政の関与するところとなり、郷土の下からの盛り上がりではなく、行政を通じた上からの統制という図式になっていきました。與之助の遺志は弟秀夫による「有年文化協会」の設立という形で受け継がれていきます。戦時体制下の制約のある中ではありましたが、與之助が蒔いた種を弟秀夫が何とか生長させようと様々な活動を行うことになります。人材育成という点からすると、その第一に挙げられる人物が弟秀夫であるかもしれません。更にもう一人、忘れてはならない人物がいます。與之助のすぐ下の弟半助(明治26(1893)年~昭和46(1971)年)です。彼は大阪高等工業で学んだのち、北海道で醸造業を修め、松岡酒造を経営していました。軍人(陸軍中尉)でもあった半助は在郷軍人会有年村分会長で、『郷土研究』創刊号に「有年村保城ヶ丘忠魂碑」を寄稿しています。また、先にふれた座談会にも出席し、青年達との議論に加わっています。半助はその後有年村村長をつとめ、その役職で昭和20(1945)年8月15日終戦を迎えました。長兄與之助の存在を最も身近に感じながら成長した彼らが受けた影響は強く、そのことを通して郷土有年のために力を尽くしたことがわかります。


    おわりに

     「有年聖人」。松岡與之助博士がこのように言われる理由が、彼の人生をたどってみて理解することが出来ました。博士の存在なくして、その後の有年の文化活動を語ることは出来ません。今回の特別企画展を通して、『郷土に生きる』ことの意味を改めて考えて頂ければ幸いです。最後に『郷土研究』の最終号に掲載された「二葉のまめ」という詩を紹介します。作者は古狂生とありますが、松岡與之助博士御自身の作と思われます。


    二葉のまめ 古狂生


    私は去年荒ずきの

    田圃の中にころげ出た

    たった一つの豆粒だ

    一つの豆がころげても

    さしたるひゞきも音もなく

    黒い「ま土」にいだかれた

    埋れて居ても春が来りや

    皮も破けて根も下ろし

    若い二葉も芽を出す

    出ては見たけれど凄い風

    霜や霰のさむさには

    あまりにかよわいこの姿

    だけれど根には力あり

    しっかり「土」をだきしめて

    一分一厘展びて行く

    二葉は雪をかきわけて

    氷雨にこほらず青々と

    日ざしめがけて伸びて行く

    大日の恵まともにうけて

    暢びて茂って花が咲き

    やがて実のりを見るだらう


     特別企画展開催にあたり多くの方々の御協力を得ました。なお名前を揚げて謝意とさせていただきます。なお、本文中敬称は省略させて頂きました。

    松岡徹・松岡壽子・西田美枝子・澤田暢子・富山和子・横山博光(順不同・敬称略)


    ■参考文献等

    1 百年史編集委員会編『龍野高等学校百年史』(1997年)29頁
    2 同上書65頁
    3 「中学校在学中 入費記載帳 龍野中学校第1年級八学級松岡與之助」(松岡徹氏所蔵)
    4 百年史編集委員会編 前掲書25頁
    5 同上書60頁
    6 同上書34頁
    7 龍野中学校友会『龍雛』第4号(1907年) 39~40頁
    8 同上書8頁
    9 松岡秀夫編『故松岡與之助論文集』(1934年)1頁
    10 同上書2頁
    11 「松岡醫学博士追想紀念 思慕録 松岡先生頌徳思慕會」より
    12 清水豊章「有年考古館設立史―松岡先生の足跡―」『兵庫史の研究』(1985年)725頁


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    ■赤穂市立有年考古館■

    〒678-1181
    赤穂市有年楢原1164番地1
    TEL・FAX:0791-49-3488
    午前10時~午後4時開館
    火曜日及び年末年始休館