■有年考古館は、昭和25年に眼科医であった考古学者・松岡秀夫氏により設立された「日本一小さい考古館」です。
■平成23年5月より兵庫県赤穂市の管理となり、11月には「日本一わかりやすい考古館」を目指してリニューアルオープンします!

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    特別展2011「松岡秀夫と有年考古館の歩み-地域とともに-」報告


     ここでは、 平成23年11月11日(金)~平成24年1月9日(月)に開催された特別展報告として、展示テキストを掲載しています。


    1 松岡秀夫の生い立ち・眼科医としての松岡秀夫

     松岡秀夫は、明治37年(1904)2月13日、有年楢原にて父・兼助、母・ことの四男として生まれました。実家は祖父・津右衛門が紺屋(染物屋)を営んでおり、小さい頃は「紺屋の子」と呼ばれていました。

     有年村立原尋常小学校を卒業後は、私立同志社中学校に入学、兵庫県立龍野中学校に編入したのち、金沢市にあった第四高等学校(全国を5つの学区に分けた官立の高等学校の一つ)理甲に入学しました。

     大正12年(1923)京都帝国大学医学部に入学、陸上部に所属していました。卒業後は、京都帝国大学医学部助手、島根県立松江病院眼科部長を経て、京都帝国大学大学院に入学。同医学部講師を勤めたのち、三重県津市立病院眼科部長に就任しました。しかし、就任後わずか4か月で、赤穂市有年楢原の松岡医院長であった兄の與之助が死去、代わって松岡医院を継ぐため、赤穂に帰ってきたのです。

     兄、與之助は地域の名士であり、様々な文化事業を行っていました。なかでも『郷土研究』は、国家掲揚の手段にされていたとは言え、「郷土を知れ!!郷土を誇れ!!郷土を愛せ!!」というスローガンのもと、コミュニティの維持形成に大いに役立っていました。松岡医院を継いだ秀夫は、こうした地域の盛り上がりを、再び活性化させることを考えていきます。


    2 松岡秀夫の社会事業と埋蔵文化財保護への一歩

     兄、與之助のこれまでの活動により、文化活動の地盤は、すでにできていました。そこで、松岡秀夫は昭和8年に蓼風社を結成、本部を松岡医院内に置きます。蓼風社は、短歌や俳句を詠むサークルでしたが、その後、有年村内の多くの文化活動を行う団体を吸収して有年文化協会を結成、会長となりました。

    その活動内容は「なんでもやった」と言われるほど多彩なものでした。

    有年文化協会の昭和16年度事業

    会員数 205名

    農事講演会、衛生講演会、時局講演会、中南米事情講演会、座談会、蘭印事情を聴く会、大政翼賛会文化部員を囲む座談会、一夜講習会、出征軍人家庭カメラ訪問、慰問袋作製、新英霊初盆慰問、遺家族招待慰安映画大会、現役入営者壮行会、大詔奉戴記念武運長久祈願祭、映画会、演奏会、芸能大会、紙芝居、括映機の活用、郷土史研究会、史蹟標柱建立、高齢者調査、台所改善調査、ラジオ聴取状況調査、農繁託児所解説及び既設のものへ応援、剣道大会、青年角力大会・体育会・ラジオ体操会援助、月報発行、短歌・俳句会、吟行会、図書館経営、開墾作業奉仕 (『兵庫縣に於ける文化運動』第一輯より)

     ちなみに、横山の開拓のため集められていた囚人を対象に幻燈機映写を行い、その御礼として山羊を1頭もらったことがあります。この山羊を育てるために山羊小屋を建てましたが、昭和25年にこの建物を改修して、有年考古館の建物としたことは有名です。

     このようにして、活発な文化活動を行ってきた松岡でしたが、終戦を迎えると、大政翼賛会の下部組織であった有年文化協会は廃止に追い込まれ、また松岡自身が大政翼賛会兵庫支部の理事を兼ねていたことから、昭和46年11月8日に発表された地方公職者に対する覚書の適用拡大を受け、公職追放されてしまったのです。

     その後、周辺地域の文化協会が再結成されるのに対して、有年文化協会の文化活動を継承する動きがまったくないことを悲しみ、浅く広く活動を行ったことが、後にその成果を残せなかった原因と考えていました。深く、一つの物事に取り掛かろうと思い始めたのがこの時期でした。

     松岡は、第二次世界大戦中、食糧増産のために上郡町の釜島字柏原で、持ち山の山麓を開墾していたときに偶然弥生土器を発見し、考古学に関心をもったようです。有年文化協会の活動の一環として蟻無山古墳に標柱を立てていることから、戦中においても一定の認識があったことがわかります。

     しかし決定的となったのは、昭和22年、有年村立原小学校の裏山で行われていた砂防工事で土器を発見したことで、このとき埋蔵文化財の保存を決意したと言います。松岡秀夫は43歳でした。

     松岡は、さっそく砂防工事の作業員に「土器等が出てきたら捨てないで集めておくように」と依頼するなど、地域の考古資料収集に走り出します。

     そして、考古学者としての松岡秀夫が誕生したのは、昭和23年、高田村與井(現・上郡町)での西山瓦窯での初めての発掘調査でした。こうした精力的な活動を見て資料を寄贈する人々が現れはじめ、収蔵資料の一般公開を考えるようになりました。


    3 有年考古館の開設

     そこで松岡は、昭和25年4月、有年考古館設立準備委員会を結成、代表者となります。同6月には『有年考古館設立趣意書』を刊行、有年考古館の位置づけを明確にしました。

     有年考古館は、昭和25年7月に着工して9月に完成しましたが、山羊小屋を改修した本建物の面積はわずか44㎡と、本当に小さな建物でした。これを評して、文部省(現在の文部科学省)の技官であった斎藤忠氏は「日本一小さな考古館」と揶揄しましたが、松岡はこれを逆に誇りとし、キャッチフレーズとしました。

     有年考古館はこうして始まったのです。建物は小さくても志は大きなもの。昭和25年10月8日に行われた有年考古館の開館式には、梅原末治京都大学教授を招いて記念講演会を行いました。

     ちょうどそのころ、上郡村の高田地区で大規模な造成事業がはじまり、砂防工事で古墳の一部が破壊されるという事件が起きました。そこで有年考古館は、西野山3号墳の発掘調査を開始し、多大な成果を収めることができました。この調査は、正式な手続きをもって行った学術調査としては兵庫県で戦後第1号のものでした。200部刊行されたこの報告書は、報告書の「序」を記した梅原末治氏により配布先が選定され、日本全国の著名な学者に配布されました。 ここに、有年考古館の名が全国に知れ渡ったのです。

    なお、昭和26年4月27日には、兵庫県より財団法人の認可を受け、松岡は晴れて財団法人有年考古館初代館長となりました。


    4 赤穂市での保存・調査活動(1)

     赤穂市の歴史を語るうえで欠かせない『赤穂市史』が刊行された当時、市内の先史時代を物語る考古資料のほとんどは、松岡が自ら調査・収集し、有年考古館に収蔵してきた品々でした。つまり、松岡秀夫が赤穂市の先史時代の歴史を残した、といっても過言ではありません。

     例えば、赤穂市立原小学校の下に眠る「原小学校庭遺跡」。後の赤穂市教育委員会や兵庫県教育委員会の発掘調査成果につながるような、大変珍しい須恵質の土馬や円面硯、土製竈などが見つかりました。

     赤穂市の弥生時代を語るうえで欠かせないのが、上高野で松岡が発見した石製銅鐸鋳型です。もともと住民の手によって「お地蔵さん」として祀られていたものを、調査の結果、銅鐸鋳型片と認定したもので、当時は全国で3例目の石製鋳型の発見となりました。

     松岡は、埋蔵文化財資料のみならず古文献についても精通しており、荘園や地名、代官研究などを行っています。真殿村検地帳(赤穂市指定文化財)などは、処分される直前に保存し、谷中進氏と調査を実施しました。

     昭和44年には、有年楢原新田、有年横尾、有年原、そして有年牟礼の全戸400戸中、約100名を会員とした「有年史跡を守る会」を発足させ、開発事業によって破壊の危機にさらされ始めた文化財を、地域ぐるみで守る体制を整えています。このような活動の結果、現在の有年の住民にとっても、文化財は身近なものに感じておられるようです。

     さらに松岡は、赤穂歴史研究会の会長も務めており、赤穂市文化財保護条例の制定や赤穂市史の編纂、赤穂市立歴史資料館(現在の赤穂市立歴史博物館)の建設、日本専売公社赤穂支局旧庁舎(現在の赤穂市立民俗資料館/兵庫県指定文化財)の保存要望をするなど、赤穂市の文化財保護行政にも多くの提言をし、実現にこぎつけています。 


    5 赤穂市での保存・調査活動(2)

     当時、遺跡の調査を行う際には、調査団を組織するのが常でした。松岡も、赤穂市では赤穂市埋蔵文化財調査会を結成し、数々の調査を手掛けています。 例えば、周世入相遺跡の発掘調査時の調査員は、河原隆彦(東洋大附属姫路高校教諭)、松岡秀樹(兵庫県播磨高校教諭)、谷崎良晴(神戸野田高校教諭)、石塚太喜三(姫路市立朝日中学校教諭)、竹本敬市(明石市立望海中学校教諭)、松本保(赤穂市立赤穂東中学校教諭)、谷中進(赤穂市立坂越中学校教諭)、福田昭宏、前田靖幸、河部元一であり、近隣地域に勤務地をもつ学校教諭(いずれも当時)であったり、歴史に興味のある方々が参加していました。そのため、発掘調査は学校の休業期間中か土日を中心に行いました。堂山遺跡もその例で、古墳時代初頭の吉備からの搬入品や、古代塩田跡を示唆する土層見つかるなど、多大な成果を収めています。

     こうして得られた資料は、市教育委員会の所蔵となっていますが、調査自体は有年考古館館長の松岡秀夫を団長とした調査団によって行われたのでした。

     松岡は『赤穂市史』編さん委員に委嘱され、その基礎資料充実のため、学術的な測量調査や発掘調査を数多く実施していきます。なかには、塚山6号墳や野田2号墳などのように、現在兵庫県指定文化財となっているものも含まれており、貴重な資料が有年考古館に収蔵されることになりました。

     周世宮裏山古墳群や塚山古墳群は、『赤穂市史』編さん時に分布調査が行われ、樹木が茂っているなか多くの古墳を発見し、分布図が作成されました。 赤穂市教育委員会では、この成果を生かし、平成21年度にさらに充実した分布・測量調査を実施した結果、周世宮裏山古墳群ではその詳細な墳丘規模と位置関係が、塚山古墳群では古墳数が約50基にのぼることが判明するなど、大きな成果が得られました。

     このように、文化財の調査記録とは蓄積され、次の世代に受け渡していくものであり、松岡はその基礎を築いたと言えます。


    6 上郡町での保存・調査活動

     有年考古館は、旧赤穂郡内の考古学調査研究の拠点となっており、周辺で見つかった考古遺物が持ち寄られることも多くありました。上郡町別名で見つかった銅剣もその一つで、昭和33年、山麓で採土作業中に発見され、有年考古館に寄贈されました。松岡は、出土した銅剣の調査報告として、有年考古館名義で昭和44年に『兵庫県上郡町別名出土の銅剣』を刊行し、周辺地域の銅剣との比較分析を行っています。

     有年考古館が実施した西野山3号墳の発掘調査によって、当地域の重要性は高まりましたが、開発の波は休むことなく押し寄せていました。隣接する中山古墳群に大規模な造成計画が起こっており、昭和45年、その予定地で古墳4基が発見されたのです。

     中山古墳群は、上郡町高田中山にある11基(当時)からなる古墳群でした。造成計画は1,800戸のベッドタウンをつくるものであり、松岡は、有年に続いて昭和46年に「上郡町の史蹟を守る会」を結成、町民に保存嘆願の署名運動を行いました。町人口約16,000人の4分の1にあたる約4,000人の署名が集まり、県と事業者が協議した結果、一部の古墳を保存することが決定したのです。

     このうち保存された中山13号墳は、のちの平成18~20年度の確認調査で、隣接していた15号墳とあわせ、千種川流域で最初期の前方後円墳であることが判明しました。また、発掘調査されたうち中山12号墳(当時8号墳)では、素環頭大刀や多量のガラス玉類などが出土し、当時の権力者の存在を物語る貴重な資料が得られています。こうした調査成果は『中山古墳群調査報告』として昭和48年に刊行されています。

     なお上郡町高田から与井周辺は、古代の旧赤穂郡で最も栄えた場所であり、当時の赤穂郡衙(役所)や、赤穂郡唯一の白鳳寺院(飛鳥時代の寺院)があるほか、当時の主要道路である古代山陽道も、ここに整備されました。上郡町落地では、当時の駅家跡が発見され、現在、国の史跡に指定されています。


    7 相生市などでの保存・調査活動

     相生市は、早くから造成と宅地化が進み、相生市で初の古墳調査となった陸池の上古墳(調査後消滅)の調査報告を松岡が昭和55年度に刊行した時点で、すでにかなりの古墳が消滅していました。有年考古館にも収蔵資料のある、佐方裏山古墳や陸狐塚古墳のほか丸山古墳など、5世紀代の古墳さえ次々に消滅していったことに、松岡は心を痛めていたのです。

     その後は、相生市が実施する重要遺跡を保存するための記録調査委託を受け、入野窯跡や入野大谷2号墳、緑ヶ丘2号墳、大避山1号墳、大塚ハザ古墳、緑ヶ丘一の谷2号窯跡といった測量・発掘調査をする一方、農業基盤整備事業やほ場整備事業、土地区画整理事業などの開発に伴う全面発掘調査を行っています。

     そうした中で、丸山窯跡は確認調査の結果を受けて一部が保存され、測量調査を実施した大塚ハザ古墳や塚森古墳、那波野古墳や若狭野古墳も現在に残されており、実際に見学することができます。

     有年考古館の活動は旧赤穂郡にとどまらず、昭和51年、揖保郡太子町黒岡神社裏の丘陵(現在の黒岡古墳群)が土砂崩れを起こした土から採集された土器が、上郡高校社会研究部員によって有年考古館に寄贈されるなどしています。このうち須恵器の子持ち器台は大変珍しいものです。

     ほかにも、龍野市(現たつの市)、揖保郡御津町(同)、揖保川町(同)、揖保郡太子町、姫路市の資料が多く収蔵されているほか、大阪府内の古墳から出土した円筒埴輪、関東地方から東北、北海道にかけての縄文土器や石器など、広い地域から集められた資料もあります。これらは、旧赤穂郡の資料をより広い視野から見るという松岡秀夫の構想のもと、集められたものでした。

     これらの資料は、今後の資料整理により明らかにしていきたいと考えています。


    8 研究者としての松岡秀夫

     松岡が考古学を志したのは昭和22年、43歳の時でした。次女の環さんが当時を振り返り、「考古学に自分の生活を捧げた」と語るほどの努力家で、大きな功績を数多く残したのでした。

     西野山3号墳の調査報告書刊行で全国に知られるようになった松岡は、古文献の調査成果については『播磨』『兵庫史学』に、考古学の研究成果については『考古学研究』『古代学研究』といった学術雑誌に論文を投稿し始めました。

     有年考古館名義の研究調査報告書は、『兵庫県赤穂郡西野山第三號墳』(1952年)『赤穂郡原村百年史』(1969年)『兵庫県上郡町別名出土の銅剣』(1969年)『中山古墳群発掘調査報告』(1973年)などを中心とした8冊、発掘調査報告書は19冊、執筆文章は「播磨千種川流域の古代遺跡について」(『考古学研究』1962年)「赤穂市の縄文遺跡」(『古代学研究』1966年)「赤穂市上高野発見の銅鐸鎔笵」(『考古学研究』1976年)「赤穂地方出土の円筒埴輪とその編年」(『考古学研究』1979年)など100本を超えています。

     その原動力は「松岡ノート」とも言うべき、多数の調査研究ノートの存在です。資料の調査カード、考古資料の検討、論文の写し、古文献の解読、論文メモなど、あらゆる情報が書き込まれています。

     松岡は研究の途上で逝去したため、今後これらのノートを再整理することで、まだ未発見の資料や論文も出てくるかもしれません。今後は、赤穂市立有年考古館および赤穂市教育委員会職員による整理調査を行い、松岡のこうした卓越した高い見識を、さらに明らかにしていきます。


    9 研究者たちとの書簡 数々の受賞

     西野山3号墳の発掘調査報告書を刊行したことに加え、有年考古館では年1回、著名な考古学者を招いて講演会を開催しており、松岡の学術的な交友関係は広がっていきました。なかでも、開館時に記念講演会を依頼した梅原末治京都大学教授とは何度も書簡の往復があり、懇意にしていたようです。姫路城の修復工事落成式にも、松岡が行動を共にしました。

     そのほか、近畿圏の文献学者との意見交換の書簡や、関東の研究者から縄文土器や石器、貝類の寄贈を受けた書簡、アメリカのハーバード燕京図書館からの図書寄贈依頼や、米国議会図書館、英国博物館、駐神戸大韓民国領事館からの図書受領書も残されています。

     このような多大な功績を残した松岡には、各方面からの受賞が相次ぎました。昭和27年に兵庫県文化賞受賞、昭和45年に文化庁長官表彰、昭和50年に勲五等瑞宝章受章、昭和52年に塩谷賞受賞、昭和55年に神戸新聞平和賞受賞、昭和59年に姫路文化賞受賞、昭和60年に姫路市民芸術文化大賞受賞。

     ただ、勲五等瑞宝章受章の時に「文化財 保護に一生を かけしが その破壊者より 賞をもらいぬ」と自らの立場を問い直すような短歌を詠んだのは、松岡らしいと言えるでしょう。

     また、松岡は数々の団体の委員や会長も務めました。自らが結成した団体も多く、まず目的があって手段を作るという、バイタリティあふれる人物でした。


    10 松岡逝去とその後の有年考古館

     松岡は、昭和60年8月30日に81歳で逝去しましたが、この前後を見てみると、昭和59年1月から、赤穂市堂山遺跡、同尾崎大塚古墳、相生市西後明窯跡、上郡町高田小学校地区の発掘調査をはじめ、上郡町の遺跡分布調査をたてつづけに実施するなど、まさに脂が乗った時期でした。

     傘寿記念祝賀会が開催された後、松岡の「先生」と「教え子」たちによって計画された記念論文集への謝辞を書いた翌日に倒れ、5日後に突然の訃報となりました。記念論文集刊行祝賀会は、「松岡先生を偲ぶ会」になってしまったのです。

     しかし有年考古館は、同じく考古学を研究していた子息の松岡秀樹が2代目館長として跡を継ぎ、博物館活動を継続することになりました。周囲には、松岡に育てられた多くの人々がおり、理事などの役員として館運営にご助力され、平成23年までの25年間にわたり、有年考古館の管理運営を実施できたのです。

     現在、有年地区は「文化財の宝庫」と言われていますが、もし松岡秀夫がいなければ、宝庫にはなっていなかったかもしれません。今、私たちが良好に残る古墳を直接見ることができるのは、松岡秀夫やその周辺の数多くの人々の活動と、またそれらを支えた地域の人々がいたからこそであり、これからも地域の宝を私たちの時代で途絶えさせることなく、次世代の子供たちへと継承していくために努力していかなくてはなりません。


    余談 松岡秀夫 三つの顔

     松岡秀夫には、眼科医としての顔、考古学者としての顔、俳人としての顔がありました。

    考古学者としての松岡秀夫

     有年考古館設立当時、発掘調査等を行う予算は全くなく、調査は手弁当で行われるのが普通でした。有年考古館はこうした活動の拠点となり、とても高価であった測量機器「トランシット」の貸出しなど、多くの調査支援を行いました。

     考古学の調査は発掘調査だけではなく、出土遺物の調査もあります。これらを観察し、実測図を作成するため、様々な道具が使用されました。形取器である「真弧(まこ)」は、手作りのものです。

    眼科医としての松岡秀夫

     眼科医としての松岡秀夫は、評判の医者だったようで、有年駅まで行列が続いた、との逸話が残されているほどです。また「怖い」という評判も多くあり、注射をするときに思わず腕を引くと、「腕を注射器に持って来い」と迫ったという伝え話も残されています。一方で子供には優しく、学校医を務めるなか、子供と一緒に遊んでいたというエピソードも残されています。

    歌人としての松岡秀夫

     松岡は、昭和7年に家業を継いでまもなく、村に1軒しかない駅前の理髪店主、平田氏と懇意になり、短歌の歌誌『吾妹』の存在を知ります。平田氏に導かれて作歌生活が始まり、昭和8年には蓼風社を立ち上げました。その後、めきめき頭角を現し、昭和12年には『短歌研究』の新人賞50首に「城銀之助」の筆名で入選、一躍新進歌人として注目を浴びました。

     昭和10年からは俳句も始め、「松岡秀峰」として50年以上、俳句を詠んでいます。

     昭和60年には句集『発掘日記』を刊行、秀夫逝去後も、子息の秀樹が平成元年に遺稿歌集『蟻無山』を刊行しています。秀夫の短歌、俳句は考古学に関するテーマも多く、異彩を放っていたことでしょう。

    土器を掘る細き竹箆かじかむ手

    炎天下玉掘る人の眼真摯


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