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〒678-0258 赤穂市古浜町69
学校の沿革

校章は赤穂西小学校と分離する以前の旧校区八地域(向・東・西・新田・大津 ・木生谷・折方・鷏和)を当地域の主産業であった塩の結晶をモチーフに,大き な正方形八個を図案化し,中央に小を知・徳・体として表し,あらゆる面に努力 することを八方に結びつけてデザインしたものである。
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長尾の池跡 |
![]() 光浄寺 |
![]() 荒神社 |
![]() 阿弥陀堂 |
![]() 日吉神社 |
![]() 真光寺 |
![]() 堪忍橋 |
![]() 西の観音様 |
![]() 大津清水の地蔵 |
【長尾の池跡】
昔,『長尾の池』と呼ばれる小さな池があった。悪いことをして処刑(首切り)された人の首をその池で洗ったので,池の水は血で赤く染まったという。池の水は日に7回も色を変えたので,当時は『七色の池』とか『うらみの池』とも呼ばれた。
また,池の横の道は『備前街道』と呼ばれた大切な道で,児島高徳(備前の国の有名な武士で坂越にお墓もある。)というえらい人もこの道を通ったと言われている。
【タクミさん〜光浄寺〜】
新田では、8月23日から次の日にかけて、光浄寺で「タクミさん」の法要(法事)が毎年営まれる。「タクミさん」とは、新田の開拓(荒れ地を切り開いて田畑などにすること)に尽くした赤穂の藩主(殿様)浅野内匠頭長直のことである。長直の命日(死んだ日)にあたるこの日、新田の人々は光浄寺に集まり、感謝の意味を込めて大きな法要を営んでいる。
昔の人々の暮らしは大変苦しく、毎日の生活で白いご飯(お米のご飯)を食べることはほとんどなかったが、この日だけは必ず白いご飯を炊き、蛸を使ったごちそうを作り、親戚や親しい人を招待してふるまった。そのため、この「タクミさん」は「蛸祭り」とも呼ばれていた。
【塩屋荒神社】
荒神社は、秦河勝(飛鳥時代のお金持ちで、聖徳太子の家来であった)が坂越へ来て、千種川の川沿いの地域を開いた時、三宝荒神(仏・法・僧の3つの宝を守る神様)の木の像を作って祀ったのが、始まりと言われる。
阿弥陀堂の近くにある鳥居から荒神社までの正面道は、文久2年(1862年)にできたもので、屋台を通すために作られた。石橋が今のように丸くそりのある橋になったのは、慶応2年(1866年)のことである。
主な祭りは元旦祭(1月1日)・とんど(1月15日の朝6時30分頃、火をつけ餅まきをする)・わこし(6月30日)・夏祭り(7月15日)・秋祭り(宵宮10月24日、本宮25日)である。
境内にある井戸の水をつけると、メバチコやイボがよくとれ、沸かして飲むとどんな病気にも効くと言われる。
【阿弥陀堂】
敏達天皇(第30代)の時代に高麗(今の朝鮮半島にあった国)の恵便法師が,仏教を広めようと3つの阿弥陀如来を伝えた。そのうちの1つを今の西有年に六道山遍照院を建て置いたが,守る者がいなくなって ,約800年の間風雨にさらされていた。嘉吉2年(1442年)「いのちやさん」(今の東地区の井ノ内さん)という人が,この阿弥陀如来を背負って湯の内地区の峠を越えて,今の阿弥陀如来道の場所に安置したのが始まりである。その後代々「いのちやさん」がまつっていたが,今では真光寺が管理している。
昭和60年(1985年),阿弥陀堂を建て直したとき地中から約1300年前の貝塚(大昔のゴミ捨て場)が発見され,平安時代の土器も出てきた。
境内には,享保5年(1720年),有年村との争いで村の代表として首を切られた3人を三地蔵さんとしてまつっている。また,明治12年(1879年)に大流行したコレラで亡くなった98人の冥福を祈って建てられた「コレラの碑」や,明治9年(1876年)命をかけて塩屋村を泥棒から守った「宇田勝平の墓」などもある。
【日吉神社】
承応元年(1652年)、赤穂の殿様浅野長直が豊作を祈るためここに神様を祀り田を寄付した。以来、殿様が変わっても大切にされてきた。
主な祭りは、元旦祭(1月1日)・とんど(1月14日)・稲荷祭(4月第1日曜)・わこし(6月30日)・天神祭(7月15日)・秋祭り(10月25日)である。
秋祭りの時には、獅子舞と屋台(明治の中ごろに廃止となる)の他に雅楽(日本の古い音楽)や奉納相撲なども行われた。
参道の途中にある川に降りる階段は、神社に参る殿様たちが乗ってきた馬に、水を飲ませるためのものであると伝えられている。また、石垣は旅の石工がお礼に築いたもので、他の地域ではみられない特別な組み方である。
日吉神社には、新田干拓(海などに堤防を作り、陸地や田畑にすること)の時に人身御供(生けにえ)となった「おさんさん」もまつられている。むかし日吉神社を山王神社といっていたのは、「おさんのお宮」という意味をこめていたからであると言われている。
【真光寺】
真光寺は,文亀2年(1502年)に開かれた浄土真宗本願寺派のお寺で,住職の(お坊さん)「村上建明」さんで22代目になる。
山門(お寺の門)は,雄と雌の龍の彫り物のある「四足の門」(真ん中に柱があって前と後ろに二本ずつ門がある)で江戸時代に村を支配していた役人の柴原家が中心となって,村の人々がお金を出し合い建てたものである。
当時,この四つ足門は,殿様の許しがなければ建てることができなかったので,真光寺は一時閉門(門を閉じて,建物の中にこもっていること)になったこともある。鐘つき堂の横に見える鬼瓦には,お坊さんがお経を読む姿・托鉢(勉強中のお坊さんがお米やお金をもらうために,鉄の鉢を持って家々を回ること)の姿・お説教(仏様の教えを人々に聞かせること)の姿などが見られた。現在は建てかえられ,鬼瓦は保存されている。
真光寺も,昔は山門を入るとすぐ本堂があった。明治43年(1910年)に今の場所まで丸い形をしたたくさんの木の餅つき臼を使って引っ張ったという記録がある
【堪忍橋】
昔,正月屋という大金持ちがいたが,怠け者の主人は働くのが嫌いだったのでだんだん貧乏になった。その息子が後を継いでから,「どんなことをしても,昔の正月屋に戻してみせるぞ。」と紙くず拾いから身を起こし,小橋川(昔の東地区に流れていた川)に架かる石橋の上に立っては,「堪忍,堪忍(がまん,がまん)。」と言って働き,もとの大金持ちになったという。
その石橋が『堪忍橋』と呼ばれ,今も東地区南集会所の前に置かれている。
【西の観音様】
戦国時代(1470年頃から約100年)の終わり頃,塩屋村西町(今の塩屋西地区)に九右衛門という人が住んでいた。九右衛門は,毎晩水に沈んでいる観音様の夢を見るようになり,その観音様を引き揚げることを決心して船を出し,お告げがあった場所で,網を使って観音様を引き揚げた。
そして,自分の屋敷に「マユミ」という木を植え,これを生け垣として観音堂を建て,観音様を大切におまつりした。
この観音様を人々は厚く信仰し,江戸時代(1603〜1867年),数十年に一度,観音堂の扉が開く日には,大勢のお参りの人々でにぎわっていた。
【大津清水の地蔵】
昔、京の都にとても仲の良い兄弟がいた。ところが、兄は悪い仲間に誘われて、行方不明になってしまった。一方、弟は学問に精を出し、都でえらい役人になった。
そのころ、播磨地方では悪い盗賊団(どろぼう)に困って、京の都へ応援を頼んだ。
播磨の国にやって来た弟は、大津で盗賊団の首領(かしら)を捕まえたが、その首領が、自分の兄であった。弟は仕方なく兄の首を切り、この地に埋めて都に帰ったという。大津の村人が哀れな兄弟をしのんでつくったこの地蔵は、「首塚地蔵」と呼ばれている。
首から上の病気を治すと言われ、多くの人がお参りしている。

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