兵庫県赤穂市の文化財 -the Charge for Preservation of Caltural Asset ,Ako-
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赤穂城下町跡の発掘調査(日本語版)

ここでは、昨年度に刊行した『発掘された赤穂城下町』の文章から、赤穂城下町跡の発掘調査の文章を転載いたします。

英文版はこちらのページをごらんください。

赤穂城・赤穂城下町跡とその発掘調査

 世界に誇る日本の文化の一つに、江戸文化があります。徳川家康によってつくられた江戸幕府は、1603年に開かれて以後1867年まで約260年間も続きました。この時代に最も権力を握っていたのは武士であり、「士・農・工・商」という階級がありました。この権力集中のシンボルとして、石垣や堀に囲まれた城郭が全国に多く築かれ、その周辺には城に勤める武士を相手に商売する町が形成されました。これを城下町と言います。

 赤穂市には現在、1661年に浅野長直が築いた赤穂城跡があり、その北に広がる市街地はかつての赤穂藩の城下町、「赤穂城下町」なのです。その歴史は古く室町時代に遡り、加里屋古城という砦周辺に、経済活動を目的として集まってきた人々によって開かれました。1603年に江戸幕府が開かれると、姫路城に本拠をおいた池田輝政によって小規模な城が赤穂に築かれ、本格的な城下町がつくられました。1621年に起こった大火事により、ほぼすべての家が一旦焼けてしまいましたが、その後に行われた復興の結果、絵図にあるようなしっかりとした町並みができました。

 1645年から赤穂を治めた浅野長直は、塩田による収入増を背景に、現在ある赤穂城を築城するとともに、城下町を拡大させました。当時の城の堀を一部埋め立て、新しい堀を掘削し、大きな池を埋め立て、家々を移転させました。その結果、ピーク時には約8,000人もの人口がありました。

 しかし、このような経済成長は長く続きませんでした。浅野家三代目の浅野内匠頭長矩は、1701年、江戸城内で吉良上野介に刀で切りかかり、傷を負わせました。この罪により浅野長矩はその日に切腹、赤穂藩は断絶しました。これに対する大石内蔵助らによる仇討ちは、現在も『忠臣蔵』として伝えられています。

 その後は森長直が赤穂を治めましたが、支配する土地が減らされたため、収入が1/2以下にまで下がりました。その一方で、廻船業や製塩業で大きな財産を作ったのは、坂越、新田、御崎といった城下町の周辺地域の人々でした。このように、江戸時代後期には経済の中心が城下町から周辺地域に移り、城下町は徐々に衰退していきました。

 経済活動は成長しなくなったものの、赤穂城下町での生活は現在まで受け継がれており、町中には江戸時代の暮らしを伝える町並みが今も残っています。最もよく残されているのは赤穂城跡(国指定史跡)で、内部にある大石内蔵助良雄屋敷の門や近藤源八正憲屋敷の門(赤穂市指定文化財)などは、江戸時代に建てられた建築物として、貴重なものです。また近年は、城内の発掘調査によってさまざまな歴史的事実が明らかとなり、門や庭園が復元整備されています。城を出て、城下町にある歴史的景観の第一は、複雑に折れ曲がる道路です。JR播州赤穂駅から赤穂城跡へと到る直線の道は近代に作られたものですが、一歩細い路地へ入ると、幅の狭い道が何度も折れ曲がっているのを見ることができます。これは、赤穂城下町が戦争に備えた町であるために、敵が侵入しにくい構造になっているからです。

 もう一つの注目点として上水道施設を挙げることができます。赤穂城下町は海に大変近いために、井戸を掘っても海水が出てしまいます。そのため、1616年にはすでに上水道が敷設されていました。第一の特徴は、武士のみならず、町の人々の家一軒一軒に水を引いた点にあります。これは全国的に見ても珍しいことで、現在はそれを称えるために小さな公園が各地に作られています。 赤穂市教育委員会は1998年から赤穂城下町跡の発掘調査をはじめました。調査の結果、九州で生産された陶磁器(伊万里焼、唐津焼)や、岡山県の備前焼といった生活品が多く見つかるとともに、当時の建物跡がよく残っていることがわかりました。本書で報告する内容は、その発掘調査のごく一部です。以下にその概要を記します。

1 建物がたいへんよく残っていた
 発掘調査区域は、町人の家3棟分にまたがっていることがわかりました。調査範囲が小さいために全体を把握することはできませんが、建物の柱を据える石が大変よく残っていました。当時の家の内部には、柱をすえて畳を敷く「ヘヤ」と、家の中にも土の地面がある「ドマ」があり、その範囲がよくわかりました。
2 貴重な陶磁器類がたくさん見つかった
 城下町を発掘調査すると多くの陶磁器が出土するのは普通のことですが、今回の発掘調査では、たいへん珍しい製品が多く見つかっています。中でも直径30cmを越える伊万里大皿や、アゲハ蝶が描かれた伊万里青磁皿など、階級の高い人々が宴会を行う際に用いられる容器が多くあります。
3 遺跡の移り変わりが明らかになった
 すでに触れたように、赤穂城下町は室町時代以降、継続的に人々が住んでいたわけですが、その間、現在まで約1mもの造成が行われていることがわかっています。この造成は大きく2度行われており、その土に含まれていた陶磁器から、遺跡の移り変わりが明らかになりました。

 これらのほか、現在に残されている文献や絵図とあわせて検討することで、赤穂城下町に関するさまざまな歴史が明らかになりました。赤穂城下町は1mもの造成がされているために、現在も地面の下には遺跡が埋まっています。発掘調査をすることでその生活の一端を知ることができ、また現在の町の起源と歴史を教えてくれます。現在私たちが住んでいる地面にさえ、江戸時代の人々の苦労が詰まっているという事実は、現代社会を生きている私たちに、歴史の大切さを教えてくれることでしょう。

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巻頭写真1
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