文化財説明看板、標柱を設置しました!
このたび、赤穂市内の文化財を説明する看板、標柱を設置いたしましたので報告します。
■設置した看板■
- 尾崎・大塚古墳(尾崎地区)
- 尾崎地区から瀬戸内海まで一望できる尾崎向山の上にあり、長さ約8.5mの横穴式石室をもつ後期古墳です。6世紀後半の築造と言われており、明治41年(1908)に発掘調査が行われています。その成果は報告書として残され、その報告書とともに赤穂市指定文化財(遺物包含地等の遺跡)となっています。
- 大蓮寺山門(加里屋地区)
- 大蓮寺はすでに1530年代には開基しており、江戸時代初めに今の場所に移ったと言われています。この正面を飾る門は、赤穂市内では大変珍しい形をしており、規模が雄大で、また江戸時代前半期を代表するような簡素な彫り物も、門全体の意匠を品位あるものにしています。平成16年(2004)に赤穂市指定文化財(建造物)となっています。
■設置した標柱■
- 蟻無山古墳(有年原地区)
- 古代の有年原地区は、赤穂の中心地の一つでした。この地域全体を見下ろす蟻無山の山頂(標高70.4m)には直径52m、高さ7mの帆立貝式古墳があります。古墳時代中期のものとしては、千種川流域で最大と言われており、周辺からは円筒埴輪、形象埴輪、初期須恵器などの貴重な遺物が見つかっています。山頂からは上郡町を見通すことができます。
- 奥池増築記念碑(有年牟礼地区)
- かつて、有年牟礼・山田地区は水田用水に大変苦労がありました。そこで池の増改築を行い、生活の安定をもたらしたと言われています。この碑ははじめ八幡神社付近に建てられていましたが、現在は奥池の脇に移されています。
- 円明庵跡(有年牟礼地区)
- 黒尾須賀神社の西側にあった、庵寺です。寛政3年(1791)の銘のある暦世塔があり、江戸時代後期には開基していたことがわかります。現在は竹やぶになっていますが、市民の方々の尽力により、黒尾須賀神社から当時の井戸や地蔵などを見学するルートが作られています。
- 子守り地蔵(尾崎地区)
- 江戸時代から近代まで、加里屋と尾崎とを結ぶ橋は、現在の尾崎大橋よりやや北側に架けられていました。夏にはこの橋の下で子供達がよく水遊びをしていたと言われています。この地蔵は、溺れ死んだ子供の供養にと昭和23年に建立されました。
- 枯木地蔵(木津地区)
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慶応2年7月23日に9名によって建立されたものです。立像基壇からの高さは約2m、一尊丸彫りで右手に錫丈、左手は宝珠を持ちます。近隣ではあまり見られない地蔵です。
この地蔵は、木津地区から大津地区へ抜ける道が山陽自動車道を潜り抜ける場所から1km山を登ったところにあります。高雄歴史を語る会によって、体力づくり散歩コース(約1kmの登山)として整備されていますので、是非ご活用ください。 - 木津取水井堰(木津地区)
- 赤穂上水道は、日本最大水道として知られており、1616年から使用されてきたことがわかっています。その使用量が増えてきたため、元禄15年(1702)になってこの場所が取水口として整備されました。石で築かれていた井堰も今は散乱してしまい、当時の面影はわずかに残っているに過ぎません。
- 木津・段ノ上遺跡(木津地区)
- ほ場整備事業に伴い、赤穂市教育委員会によって発掘調査が行われました。調査の結果、弥生時代〜中世にわたる遺跡であることがわかりました。中世には輸入陶磁器などの出土から、河川・海上交通を生かした流通の拠点となり、大いに栄えたと考えられています。
- 小石川の洗い場石(塩屋地区)
- 旧塩屋村北辺には、戸島用水から引かれた小橋川に、長さ30mにわたる石造りの洗い場がありました。小橋川が暗渠となるときに、この洗い場に使われていた石が移築保存されました。
- 塩屋・築田遺跡(塩屋地区)
- 塩屋川の工事中に発見された遺跡で、約4000年前の縄文土器や石器と一緒に、楠の幹をくり抜いて作られた木樋が二本見つかっています。
- 塩屋村会所・道標(塩屋地区)
- 江戸時代、塩屋村役人の詰所として使用されていた場所です。測量の起点となる道路元標も、ここに建てられています。現在は小さな公園になっています。
このほか、兵庫県指定文化財である野田2号墳(有年楢原地区)への誘導看板も設置いたしました。みなさま、この機会に是非、赤穂の歴史の一端を見学されてみてはいかがでしょうか。