兵庫県赤穂市の文化財 -the Charge for Preservation of Caltural Asset ,Ako-
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赤穂城下町跡発掘調査現地説明会(2002-4・5)

2002.8.4
赤穂市都市整備部加里屋まちづくり整備室
赤穂市教育委員会生涯学習課文化財係

1 はじめに

 このたびは赤穂城下町跡発掘調査現地説明会へお越しくださり、ありがとうございます。  今回の発掘調査は、平成10年からはじまった「加里屋まちづくり整備事業」に伴う調査です。JR播州赤穂駅から赤穂城跡大手門を結ぶ大動脈となるこの道路の下には、昔、城下町がありました。発掘調査によって明らかになった昔の「赤穂市民」の暮らしを感じていただければ幸いです。

2 赤穂城下町

 ここ加里屋(かりや)には、15世紀代に砦(とりで)が築かれ、それに伴って周辺住民が移住してきたと言われています。17世紀、江戸時代がはじまると、池田氏によって城郭が築かれ上水道がつくられるなど城下町として発展し、すでに整然とした町並みのあったことが古絵図からわかっています。
 城下町はその後の浅野氏、永井氏、森氏時代を経て、現在の町並みの基礎となりました。城下町に特有の防御を意図した「カギ型道筋」も街路整備のために直線になってしまいましたが、寺院の配置や町筋に、その面影を残しています。

3 城下町の町家〜これまでの発掘成果と今回の調査地点〜

町家

 古絵図の中には、江戸時代の町家割(まちやわり)を示したものがあります。それを見てみると当時の町家の敷地は細長いものであったことがわかります。当時は格子目(こうしめ)状に整備された道を中心にいくつかのまとまりができており、それぞれ「○○町筋」と呼ばれていました。当時の人々は、この町筋の方向に入口を構えていました。
 また、江戸時代に実際に住んでいた人々の名前が書いてある絵図(1704年:永井氏時代)があり、それからすると今回の調査地は、江戸時代のある時期の「細工町筋の長右衛門さん」と「通り町筋の甚蔵さんと又右衛門さん」の家を調査したことになります。古絵図によると、それぞれの敷地は以下のようになります(1間は1.97m)。

細工町筋 長右衛門 表7間半 裏13間 家は北向き
通り町筋 甚蔵 表9間半 裏8間半 家は西向き
通り町筋 又右衛門 表11間半 裏6間半 家は西向き

これまでの調査地点 今回の調査地点

上水道

 現在、加里屋地域の標高は2.2m前後とたいへん低いですが、江戸時代はさらに低く、およそ標高1.2〜1.7mの高さの地面で生活をしていました。赤穂城下町の上水道施設が比較的早くつくられたのは、当時、井戸を掘ると水ではなく海水が出たためと言われています。
 戦国時代から江戸時代はじめにかけて、神奈川県小田原の早川上水(1545年)、江戸の神田上水(1590年)、山梨県の甲府上水(1594年)、滋賀県の近江八幡水道(1607年)といった水道施設がすでにありましたが、それぞれの町家に給水する施設をつくったのは、赤穂城下町がはじめてでした。赤穂では1614年に工事開始、1616年には完成しました。その後、取水口の変更や導水路の改修などを幾度も行いますが、この上水道施設は結局1944年に近代的水道が設置されるまで利用されました。江戸の神田上水、広島の福山水道とともに、日本三大水道とも呼ばれています。
 上水道施設には、取水、導水、浄水、配水、給水といった過程が必要ですが、今回の発掘調査で確認できたのは給水路のみとなります。これらの給水路は、現在の道路下にある配水路から運ばれた水を、それぞれの家庭に運ぶ役目をしています。給水路に利用されたのは、竹管をはじめ、瓦質管、素焼土管、陶製管などでした。古いものは竹管が多く、瓦質管、素焼土管の順に新しいとされていますが、これまでの発掘調査で竹管も新しい時期に使用されたことがわかっており、瓦質管の再利用も考えると時期を一概に推定できません。
 このように運ばれてきた水は「汲出枡(くみだします)」から水を汲み取って使いました。

4 今回の発掘成果

土層断面写真

 赤穂城下町跡は、時代が変わるにつれ盛土や整地がなされ、地面が次第に高くなっていきました。発掘調査ではこの盛土を上から順に掘っていくことによって、時代の移り変わりを追うことができます。
 今回の調査地点では、地表面から約70cmが近代以降の掘削によって撹乱(かくらん)を受けており、確認できた昔の地表面〈=遺構面と呼びます〉は2つありました。以下では新しいものから順に説明し、それとは別に上水道関連施設の説明をいたします。

第1遺構面(17世紀中ごろ以降)

平面図

町家礎石列
 調査区の真ん中辺りで見つかった礎石の列です。よく観察してみると、石は2列に並んでいますが、これは町家2軒分の礎石であり、平らな石が間をおいて交互に並んでいることがわかります。2軒分の礎石があることから、屋敷の境界を示していると考えられます。
 大きめの石の上には柱が立ちますが、隣り合った家の柱がたいへん近接しており、建物がところ狭しと並んでいたことがイメージできます。北側の礎石列は間隔が約1m(半間)、南側のものは約1.2mあります。現在の道路と当時の道路は一致していますので、北にある道路から計測してみると、甚蔵さんの敷地の横幅(9間半=約19m)ちょうどのところにこの石列がありました。
 今回の調査ではこの礎石列を境に北を「北半区(甚蔵さんの家)」南を「南半区(又右衛門さんの家)」と呼び分けています。
道路との境界石列
 北半区、南半区の両方で見つかった石列です。町家礎石列につながっており、当時の通り町筋の道路との境界となります。この境界はその後に土を盛って整地をしてもずっと変わらず、石列も共に「かさ上げ」されていました。これまでの調査から道路側には側溝があったことがわかっています。
礎石
 北半区では、礎石が1基(直径約40cm)、礎石の抜き取り穴が2基見つかりました。礎石の間隔は約3mで1間半(1間は1.97m)となります。北東部分には焼土で造成された硬い面があり、土間であったと推定されます。他の部分に関しては、束柱(つかばしら)をつかって床があったと考えています。
焼土坑
 南半区の礎石列の中で見つかった遺構です。約1m×0.8mの方形のもので、遺構面からの深さは約8cmを測ります。底は焼けており、中には炭がたまっていました。焼けてぼろぼろになった陶磁器と瓦が出土しています。現在のところ、何に使われていたかはわかりません。

第2遺構面(17世紀前〜中ごろ)

上水道模式図

建物壁基礎石列
 第1遺構面で見つかった礎石列とは若干位置を違えて検出されました。第1遺構面のものよりは小さな区画で、「コ」の字形に見つかっていますが、角にあたる部分は石が抜き取られているようです。また北側石列の東部分では石列を抜き取った跡が見つかりました。
 この石列は、拳(こぶし)大の大きさの石がほとんどであり、柱を立てるような大きさの石が見当たりません。抜き取られている角部分には大きな石があったかもしれませんが、検出した石は壁を立てるための基礎石だったと思われます。また方形に区画された石列の内と外ではまったく床の土質が異なっており、内側は非常に硬くしまっています。
 これは「タタキ土間」のように人為的に土を敷いているわけではないですが、土間状になっていて踏みしめられていたものと思われます。
 なお、南石列のすぐ脇では1条の溝を確認しました。この溝は、石列の周りを巡ることはなくそのまま西側へ延びています。南石列のみ2石ずつ検出されていることから、この溝は石で組まれた雨落ち溝の可能性があります。
 これらの遺構の上に盛られていた土には、17世紀前半〜中ごろの遺物が多量に含まれていました。そのため第2遺構面の時期は17世紀前半〜中ごろ以前となります。
土坑
 調査区南半区の東端で、直径約1mの土坑を確認しました。建物内にあったと思われますが、性格は不明です。
上水道関連施設
 今回の発掘調査では、給水管として陶製管1本、素焼土管3本、瓦質管2本、竹管3本を確認しました。枡は、それぞれの管で合計6つを確認しています。木製の桶や陶器の甕を埋めたものが認められます。
 調査区のちょうど中央付近には竹管、瓦質管、陶製管が重なるようにして見つかりました。土層の観察から、竹管→瓦管→陶製管の順につくられたことがわかっています。

5 まとめ

上水道
 非常に小さい面積の発掘調査にも関わらず、上水道関連の施設がたくさん見つかりました。3つの上水道施設が重なってつくられていたところでは、竹管→瓦管→陶製管という変遷をたどりつつ、同じ場所に上水道がつくりつづけられていたことがわかりました。また枡には桶形のものが主に見つかりましたが、その他にも陶器製、レンガ製のものが見つかり、そのバリエーションが注目を引きます。

上水道あれこれ

17世紀前半の建物跡
 これまでの赤穂城下町跡発掘調査では、17世紀前半の建物跡は見つかっておらず、炉跡や土坑の検出に留まっていました。今回見つかった建物跡は、今後の遺物の検討によっては、これまでの赤穂城下町跡発掘調査の中で、もっとも古い建物跡になります。ここで、その位置づけを考えてみましょう。
 忠臣蔵で有名な浅野氏が常陸国から赤穂に入封してくるのが1645年、つまり17世紀中ごろです。それ以前は1600年(17世紀初)から池田氏によって治められていましたが、これまでの城下町の発掘調査で出土している遺物は17世紀前半以降のものがほとんどです。つまり、赤穂城下町は池田氏の時代に整備された可能性が高いと言えます。
 一方、細かな町地割が判明する古絵図は、浅野長矩が刃傷事件を起こして改易された(1701年)直後の1704年(『赤穂城下町絵図』:永井氏時代)のものです。今回の発掘調査によって第1遺構面の町家境界を示す礎石列は、古絵図の町家境界と一致することが判明しました。
 そしてその下層にあたる17世紀前半の池田時代〜浅野時代の礎石列も、古絵図の町家境界とほとんど変わらない位置にあたることがわかりました。このことから、池田氏時代から城下町の構造はあまり変化していないことがわかり、人々の暮らしが営々と続いていたことがうかがえます。これまでの発掘調査では、17世紀前半当時の人々の暮らしがなかなか見えてきませんでしたが、今回の調査によって城下町の歴史がまた一つ明らかになりました。

写真1 写真2 写真3 写真4 写真5 写真6

☆ 出土遺物メモ 肥前(ひぜん)☆

 今回出土した遺物のなかで、時代の認定に特に深く関わっている肥前陶磁(唐津焼、伊万里焼)について、少しばかりの説明をいたします。

ポイント
・・・はじめに肥前陶器がつくられ、つぎに肥前磁器が生産されました。

 肥前陶磁の創始期の特徴の1つである、胎土目(たいどめ)による窯詰め技法は、当時の中国にはなく、朝鮮半島の技術であることから、肥前陶磁は朝鮮の陶工によって興(おこ)されたとされています。この胎土目技法は後に砂目(すなめ)技法に変わりますが、その変化は磁器生産開始とほぼ同時期であり、1592年〜1598年豊臣秀吉の朝鮮出兵によって国内に連れてこられた、朝鮮人陶工による技術伝播と考えられています。
 その後1644年、中国が明王朝の王朝交替に伴う内乱で、磁器の生産、輸出が激減した折、中国磁器に代わって肥前磁器が国内の磁器市場を一手に引き受けるようになります。それは国内に留まらず、オランダ東インド会社の注文に応じ、東南アジアをはじめ、ヨーロッパ諸国にまで磁器を輸出するようになりました。多岐にわたる技術革新の末、中国磁器を目標にした精緻な商品を生産するようになりますが、1684年中国の清王朝が海外輸出を再開すると、またたく間に東南アジア市場を失っていきました。ヨーロッパ向けの輸出も、1750年代を最後に公式輸出はなくなります。

 海外輸出が減退する18世紀には、目を日本国内に向けなおし、コスト削減、大量生産を推進し、波佐見(はさみ)焼などの安価な大量生産品が日本国内に投入されました。その後順調な道のりを歩みますが、19世紀はじめには瀬戸(せと)・美濃(みの)をはじめ各地で磁器生産が始められ、徐々にシェアを奪われるようになりました。
 考古学の成果では、唐津焼(肥前系陶器)が1600年の直後に、伊万里焼(肥前磁器)が1630年ごろに出土量が増えることが明らかになっています。今回の発掘調査では両者がともに出土していますが、伊万里焼の中でも古いもの(初期伊万里)が出土しており、17世紀の中でも古い時期の遺物となることは間違いありません。

(江戸遺跡研究会編2001『図説 江戸考古学研究事典』柏書房を改変、加筆)

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巻頭写真1
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