兵庫県赤穂市の文化財 -the Charge for Preservation of Caltural Asset ,Ako-
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赤穂城下町跡(花岳寺門前広場)発掘調査現地説明会資料

平成15年10月28日

1 赤穂城と赤穂城下町

 加里屋の地に集落が営まれ始めたのは、中世とされています。『播州赤穂郡志』(藤江忠簾1727)によると、およそ1450年から1500年にかけて岡豊前(ぶぜんの)守(かみ)によって砦(とりで)(「加里屋古城」)が築かれ、また北の山麓の集落から移住が行われるなどして、人々が暮らし始めたとされています。
 慶長5年(1600)になって池田輝政が姫路城に入り、播磨一帯を支配しはじめると、代官として派遣された垂水(たるみ)半左衛門勝重が赤穂を治めました。垂水半左衛門は「掻上(かきあげ)城(じょう)」を築き城下町と上水道を整え、さらに大火によって荒廃した加里屋の町を復興、整備するなど、大きな成果を挙げています。
 その後、池田輝興が改易されることとなり、常陸国笠間より浅野長直が移封(いほう)してきます。長直は現在の赤穂城を築くとともに、城下町を拡大整備しました。しかし元禄14年(1701)の3代藩主浅野長矩(ながのり)による刃傷(にんじょう)事件によって、浅野赤穂藩は断絶、赤穂藩は永井氏による支配を経て宝永3年(1706)に森氏へとゆだねられ、明治維新まで引き継がれました。

2 調査地点の歴史

 江戸時代の城下町を知るひとつの手がかりとして、古絵図があります。ここでは、描かれた城下町を見ることで、調査地周辺の歴史について考えてみましょう。
 今回の調査地点は、花岳寺の門前にあたります。池田時代(1600年〜1645)を示す絵図のひとつ『松平右京大輔政綱公御時代之絵図』を見てみると、ここには花岳寺が描かれていません。北西方向にのびる備前街道の位置からすると、だいたいの場所はわかりますが、田や池となっています。一方、浅野時代(1645〜1701)を示す『播州赤穂城下図(浅野家家中図)』を見てみると、花岳寺があり、周辺は城下町となっていることがわかります。花岳寺は正保2年(1645)に赤穂を治めることになった浅野長直がその菩提寺として建立した寺であり、その際に赤穂城周辺にあった「細工町(職人町・紺屋町)」などが移転し、新しい町筋もつくられたのでした。

 もうひとつ、当時の様子を知ることができる絵図に、宝永元年(1704)の状況を示す『赤穂城下町絵図』があります。この絵図には、当時の家主の名前のほか、各町家の敷地規模が記載されており、非常に貴重な資料と言えます。この絵図からすると、今回の調査地点は、3軒分の町家にまたがっており、西から源五郎(横町筋)、安太夫(細工町筋)、市郎右衛門(細工町筋)さんの町家であることがわかります。そして、それぞれの町家規模は以下のようなものでした。

源五郎 宅 間口9間半(19m) 奥行6間(12m)
安太夫 宅 間口4間(8m) 奥行10間(20m)
市郎右衛門 宅 間口4間(8m) 奥行10間半(21m)

ところで、1706年に作成された『宝永三年加里屋町明細帳』には、

「鉄砲六挺 御公儀江指上ヶ置申候 内 壱挺 さやし 市良右衛門」
(鉄砲6挺 御公儀へ差し上げ置き申し候 内1挺 鞘師 市良右衛門)

という記載が見られます。鞘師とは刀などの鞘を作る職人のことであり、町家が細工町筋(職人の町筋)にあるということを考え合わせると、今回の調査地点東端の町家に住む市郎右衛門さんがこの人物にあたるのかもしれません。

3 これまでの調査成果

 赤穂市教育委員会では、平成10年度より赤穂城下町跡の発掘調査を本格的に行ってきました。最近の調査では、赤穂城下町のはじまりや江戸時代当時の生活を物語る重要な成果が多数発見されています。
 その成果のひとつとして、城下町の全体的な整備傾向が明らかになりつつあります。これまでの調査で、最も古い池田時代(1600〜1645)当時の地面は、現在の地面より1.2m程度下にあることが判明しています。その後の浅野時代(1645〜1701)の地面は、40cmほど上に見つかり、その後は幕末以降に盛られた土が上に堆積しています。町家1区画分の盛土を行うことは比較的簡単ですが、これまでの調査では全ての地点で盛土が見つかっています。つまり、浅野時代の地面はそれ以前に比べて全体的に40cmほど高く盛土されるという大変な作業が行われていることになり、道路との兼ね合いを考えると赤穂藩による計画的整備と考えることができます。その後、浅野氏が断絶して森氏が支配するようになると、石高が53,500石から20,000石に低下したこともあり、大規模な盛土造成は認められていません。

 現在、発掘調査で見つかる江戸時代の地面とその推定される時代は、以下のようになります。

第1面 幕末以降(幕末〜近代)
第2面 1650〜1850年頃(浅野時代〜森時代)
第3面 1600〜1650年頃(池田時代)

 ただし、それぞれの地面で、家の改築・新築が何度も行われるため、同じ地面でいくつかの生活面が見つかったり、若干の盛土が行われて多くの地面が見つかったりということもあります。

4 今回の調査成果

 これまで説明してきましたように、今回の調査地点は、池田時代に田や池であったところを浅野長直が埋め立てて町家としたことがわかっています。調査の結果、やはり池田時代の生活跡(第1面)は見つからず、今回は第2面(1650〜1850年頃)の調査成果の説明となります。
 今回見つかった第2面はいくつかの生活跡が重なっており、幕末以降の上水道施設のほか、合計3面の生活跡が発見されました。それぞれ上から1面、2a面、2b面、2c面と呼んで説明していきます。

 
1面(幕末〜近現代)
 多くの上水道施設が見つかりました。上水道管や枡が重なって見つかったものもあり、同じ場所で何度か枡や管が造りかえられたと思われます。管の重なり具合をみてみると、上水道1(瓦管)→上水道2(素焼土管)→上水道3(陶製管)という変遷をたどっていることがわかります。上水道1の枡は唯一木製の箱形枡で古いものですが、この管だけは町家境界石列を越えて管が伸びています。見つかった多くの枡は上部にコンクリートが巻かれてありますが、中には甕が入っており、上部だけ造りかえられた可能性もあります。
2a面(江戸時代後期)
 調査区東端部分で礎石が3基と上水道施設、そして池跡が見つかりました。礎石と礎石の間の距離は182cm(6尺=1間)を単位とするもので、部屋部分であると考えられます。南側の部屋部分と北側の庭園部分の間には、小さな礎石が連なっておかれていることから、壁があったこともわかります。上水道施設は、直径4cmの竹管とその継ぎ目に作られた「会所」が見つかっており、この管から池跡に水が引かれていたと考えられます。池跡内には枡が見つかっており、水道管がつながれていないことから、泥溜めに使われたのでしょう。この池跡は第1面でつくられた直径10cmの竹管によって一部が破壊されています。
 
2b面(江戸時代中期)
 町家の境界となる礎石列のほか、土間面などを確認しました。礎石は約191cm間隔で均等に並んでおり、中央の町家跡の間口が4間(1間=191cm=6尺3寸計算)であることから、絵図と一致することが判明しました。調査区中央付近にある礎石を境として部屋と土間部分に分かれていますが、土間面の下からも新たに礎石が見つかったため、建物が一度改修されたことがわかります。
 以上の状況から考えると、はじめは東西に2間幅(382cm)の土間、部屋をもつ建物だったものが、後には東に1間半幅(287cm)の土間、西に2間半幅(478cm)の部屋をもつ建物に改築されたことがわかります。
 なお、江戸時代の一般的な町家には「通りニワ(土間が入り口から奥まで一直線に連なっているもの)」があるので、北側は後世に破壊されてはおりますが、同様の構造であったと推定されます。
2c面(江戸時代前期〜中期)
 この面については一部が未調査であり、詳細は不明ですが、上水道施設や建物境界と思われる石列が見つかっています。上水道施設は調査区の北西隅で見つかった桶枡で、出土した備前焼擂鉢や、2b面の礎石列のラインと重なっていることから、この時期のものであると考えることができます。すぐ西にある石列がこれに伴うもので、建物境界になるものでしょう。2b面の建物境界が絵図と一致していることが判明しましたが、宝永元年(1704)の絵図に記載されている建物はこの2c面のものであるかもしれません。

5 今回の調査のポイント(まとめ)

町家跡の構造と変遷
 今回は、礎石の位置から間取りの変化を見つけることができましたが、さらに、上水道施設を手がかりとして、町家跡の変遷をより明らかにできます。赤穂上水道は、各戸給水(各町家に上水道を引くこと)が原則ですので、上水管がつながれている範囲は、ひとつの町家内であったという推定が成り立ちます。さらに、上水道の給水は原則的に町家が所属する町筋から行われるため、今回の場合はすべて南側からおよそ北方向への給水と考えることができます。
 2b面では、上水道が境界礎石列を越えることはなく、建物境界があったことが推定されますが、1面では上水道1が池跡を壊しつつ、東西方向に町家境界石列を越えて伸びており、この時点で2軒分の町家を統合したことがわかります。
池跡
 2a面で見つかった池跡は、これまでの城下町跡発掘調査では見つかったことのない複雑な形をしています。上部については大きく破壊されているため詳細がわかりませんが、護岸(ごがん)は池底から50 cm以上の高さがあったと考えられます。一般的な町家のなかにある庭であるため、小規模な「坪庭」を考えていますが、池は調査区外に伸びており、大きさは確定できていません。出土した遺物や土の堆積から考えて、江戸時代後期(19世紀)と考えられます。

6 おわりに

 今回の発掘調査では複雑で重層的な生活跡が見つかりました。発掘調査は、このような絡み合った糸を解きほぐしていく作業であり、ちょっとした痕跡から事実が明らかになる様子がわかっていただけたかと思います。
 今後も、赤穂城下町跡の発掘調査は所々で行われますが、地味な調査でも数多く行うことでいろいろなことがわかってくるということをご理解いただければ幸いです。

  写真1 写真2 写真3

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巻頭写真1
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