兵庫県赤穂市の文化財 -the Charge for Preservation of Caltural Asset ,Ako-
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よみがえる大名庭園 赤穂城二之丸庭園錦帯池

赤穂市の位置

 このページは、赤穂市教育委員会が平成14年に編集・発行した『よみがえる大名庭園 赤穂城跡二の丸庭園錦帯池』のWeb版です。  あくまでWeb公開用ですので、写真・図面は印刷に耐えないことをご了承ください。 なお、レイアウトは解像度1024×768、文字サイズ小を標準としています。

 

例 言

  1. 本書は史跡赤穂城跡整備事業の一環として、赤穂市都市計画課の所管事業である二の丸庭園「錦帯池」の復元整備に伴う発掘調査概要を紹介した図録である。
  2. 発掘調査は1998年〜2001年にかけて赤穂市教育委員会が実施し、調査に際しては文化庁記念物課・兵庫県教育委員会事務局文化財行政室・赤穂城跡整備委員会などの指導・助言を受けた。 現地調査の担当者は中田宗伯・味呑英和である。
  3. 本書で使用した地図は、国土地理院発行の5万分の1地形図「播州赤穂」を使用したものである。
  4. 本書の作成は中田が担当した。


 

はじめに

 赤穂市は兵庫県の南西端に位置し、西は岡山県和気郡日生町と備前市に接している。市域のほとんどは市内を南北に貫流する千種川の下流域となっており、平地は千種川の本流や支流によって形成された流域平野と、河口に発達した三角州及び近世以降の干拓地からなっている。この千種川がもたらす豊かな水と、かつては塩を育んだ瀬戸内の温暖な気候風土は、古来から快適な生活環境を提供してきた。

 千種川河口の三角州は播磨の他の河川にくらべ、その陸地化した時期が古代末から中世以降と遅かったため、市内の中世以前の主要遺跡の分布は、市域北部の有年地区に集中している。しかし中世末から近世になると、ようやく発達し始めた河口の三角州は人間の活動の場を提供しはじめ、経済的・政治的な中心も千種川上流の有年地区からこの地に移動するようになる。発達した三角州は塩田の形成を容易にしたし、海上交通の中継地や河口港としてもその価値はますます重要になったものと思われる。戦国期にはこの三角州上に城館も築かれるようになり、近世以降になると城と城下町が形成され、以後は千種川流域の政治経済の中枢となっていくことになる。


 

赤穂城の沿革

赤穂城縄張図  赤穂城は、正保2年(1645)に常陸国笠間(現在の茨城県笠間市)から石高53,500石で入封した浅野長直が、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648)から寛文元年(1661)まで13年を費やして完成させた城である。その縄張は甲州流軍学によってなされたといわれ、本丸と二の丸の関係は輪郭式であるが、二の丸と三の丸は梯郭式に配している。城の立地は、熊見川(現千種川)が形成した三角州の先端となるため、典型的な平城であるとともに、往時は海に面していたので海城とも言える。曲輪内部の面積は44,444坪(約146,900u)を測り、櫓10箇所・門12箇所・枡形5箇所を配置している。

 この城を築城した浅野家は、元禄14(1701)、江戸城中の刃傷事件によって断絶し、その後は永井家を経て森家の居城となって、明治の廃藩置県を迎えた。廃藩後に城郭建物も順次取り壊され、城内の大部分は田畑化あるいは宅地化されていったが、昭和46年(1971)の国史跡指定後は赤穂市によって指定地内の公有化が図られるとともに、発掘調査と整備事業が進められている。

 現在のところ本丸の整備がほぼ終了しており、御殿間取りの平面表示や本丸門・厩口門の復元などを行っている。また注目されるものとして、本丸内の大池泉・坪庭・くつろぎ所の池泉などの庭園遺構を復元整備しており、御殿間取り表現とともに往時の庭園景観を再現している。

本丸庭園写真1 本丸庭園写真2


 

史料にみる錦帯池

 二の丸の錦帯池を中心とした庭園については、残念ながら庭園自体を対象とした園内図のような絵図や、作庭に関する文献史料などは知られていない。わずかに城絵図や各種の文書において、断片的にそれを伝えているものが知られているにすぎない。

寛文九己酉年 播陽に在り(一六六九)
(中略)
十四日、大石氏の茶亭に遊ぶ。海棠の花盛に開発く。
龍船を艘し、短棹長歌して夜に及ぶ。酒杯狼藉。

二十一日、再び大石氏に遊ぶ。
海棠既に衰ふるも尚ほ葉底に残紅あり、牡丹悉く開花す。
大石氏浮玉堂に於て新に茶壺の口を啓き、之れを碾き之れを點す。
一葦に棹さして錦帯池に浮び夕に及ぶ。太守来臨、仙舟を同じくして遊興す。
太守発句あり。
                       (山鹿素行『年譜』から)

 こうした極めて限定的な史料のなかで、最も往時の庭園の様子を伝えているものは、江戸時代の軍学者であり儒学者としても著名な山鹿素行の著作である。この史料には赤穂での生活についてふれた部分があり、そこに大石頼母助屋敷で饗応を受け、錦帯池で遊興したことが記されている。この記事によれば、庭園内に「茶亭」「浮玉堂」などが設けられ、「海棠」「牡丹」などの植物で彩られていたこと、池泉では船遊びを行い、藩主が出向くこともあったようである。

 現在知られている絵図のうち、二の丸に錦帯池と思われる池泉が描かれているものが2点ある。これらの絵図では二の丸北西部分に池泉が描かれており、池泉の姿自体は汀線のみを描いた単純なものであるが、そのおおよその位置と規模をうかがうことができる。

絵図にみる錦帯池1
『赤穂城内士屋鋪間数之図』
(花岳寺所蔵、赤穂市市史編さん担当提供)
絵図にみる錦帯池2
『浅野時代赤穂城之図』(一部・県立赤穂高等学校所蔵)


 

錦帯池の発掘調査

写真1 写真2

 平成10年度(1998)から実施してきた発掘調査は、錦帯池と大石頼母助屋敷のほぼ全域に及び、その調査面積は約18,000uに達した。検出された池泉は、頼母助屋敷南辺から二の丸西仕切にまで及ぶ大規模な池泉で、その全長は190m、最大幅58m、池泉周囲540m、推定水面積2,400uを測る。池泉はその東北部分が二股に分かれ、細くくびれた部分から南西側に大きく開けて池中に大小二つの中島を備え、池泉全体の形状は茄子形となっている。  この池泉の最大の特徴は、二股に分かれた一方が東に細長く伸びて頼母助屋敷南辺に入り込み、この部分では池底や護岸も非常に入念なつくりとなっていることである。さらに二股部に合流する手前で、池底をやや高くしオーバーフローした水が西側へ流れ落ちるようにしつらえている。このように屋敷側では池泉造形とともに、庭園の使われ方も他の部分とは異なっていたものと思われる。

 二股部から東側、つまり大石頼母助屋敷に近い部分では、池泉に複数回に及ぶ改修が施されていたことが判明した。局部的な小さな改修を除けば、概ね2回の大きな改修が行われており、池泉の底の仕上げや平面形態、さらには給水経路などが変更されている。

 その変遷はおおよそ次のようになる。

T期
作庭当時の姿で、池底のほぼ全面に川原石の玉石あるいは板石を敷き詰める。
U期
池の護岸や平面形はT期と変わらないが、池底の玉石や板石の上に厚さ10p内外で全面砂利を敷き詰めており、T期の池底は完全に覆われる。
V期
護岸石を池の内側に移動させて池を縮小させる。T・U期で給水施設が取り付く入江状を呈していた部分は完全に埋め殺され、護岸汀線は直線的で単調なものに変わる。さらに池中央部をT・U期の池底よりも深く掘り下げて、流れの池泉から淀みをもつように造り変えている。

錦帯池の変遷図(画像サイズ111k)


写真3 写真4 写真5

錦帯池全景

 池泉の二股部から南西側は、頼母助屋敷に近い部分と比較して、護岸や池底の造りが大きく異なっている。護岸は堀護岸のような石積みとなり、池の水深も屋敷側に比べて深くなるものの、池底には貼石などは施さない。一方で、池泉自体の形状は、二股部から大きく広がって大小二つの中島を配するなど大名庭園として相応しい広大な空間となっている。

 大小二つの中島は近接して設けられ、かつ池泉の中でかなりの面積を占めているため、池泉の水面がこれら二つの中島周囲を巡るような景観となっている。往時にはこれらの中島上に各種の庭園施設が配置されていたものと推定されるが、明治以降に田畑とされた際に削平を受け、その遺構は完全に失われている。

写真6
写真7 写真8

 

池泉と上水道

上水道1
 錦帯池への給水に関しては、一部堀水を利用している可能性もあるが、主として上水道からの水が用いられている。さらに錦帯池のみではなく、本丸や侍屋敷などに設けられた池泉においても、その給水は専ら上水道によっている。

 赤穂は陸地化して間もない千種川河口の三角州上に立地するため、当時掘井戸では良質な水を得ることができなかった。このため元和年間には上水道が通水され、城内や城下町の各戸まで上水が供給されるようになる。数q上流の千種川で取水された水は、城下入口までは開渠で、城下町からは道路下に埋設された暗渠によって導水された。各屋敷地には道路下の配水管から分岐させた給水管によって水を引き込み、給水管の屈折点・分岐点や末端には枡を設けるとともに、水を汲み出す便を図った。

 このように、赤穂の城と城下町が存立するためには上水道の完備が不可欠であったが、ライフラインとしての重要性のみでなく、潤沢に供給される清水は錦帯池をはじめとして城内各所に多くの池泉庭園が造営される基盤となった。
上水道2 上水道3


 

大名庭園と錦帯池

 発掘遺構から見る限り、大石頼母助の屋敷とこの池泉の間に明確な区画等は認められず、一見両者が一体のものであるかのように見える。これは文献史料においても同様で、両者が一連の施設として記述されているようにも読める。しかし、池泉の規模あるいは二の丸という重要な郭に位置すること等から判断して、いくら家老といえどもこれだけの庭園を占有していたとはとうてい考えられない。頼母助屋敷内の部分はともかく、庭園全体としてはやはり藩主の庭園と見るのが妥当であろう。頼母助屋敷に茶屋や能舞台が存在したこと等を考慮すれば、この屋敷と庭園は藩主の別邸や迎賓館的な機能をも果たしたのではないだろうか。

 錦帯池の作庭時期はほぼ17世紀中頃に限定でき、大名庭園としてはかなり早い時期に造営されたことがわかる。ちょうどこの頃、江戸の大名屋敷のみならず、諸藩の国元でも庭園が盛んに造られ始めた時期であり、赤穂城の錦帯池の場合もこうした大名達の流行のなかで造られたものであろう。国元の庭園の場合、藩主の別邸などが城郭から離れて造営され、これに付随して庭園が造られることが多かったが、赤穂藩では城外に藩主の別邸は持たなかったようなので、赤穂城の二の丸内にこうした庭園などを集約して造営したのではないだろうか。この錦帯池は、多くの大名庭園が失われたり後世の改変を受けることが多いなか、発掘調査によって造営当初の姿が明らかとなった大名庭園として貴重な例である。

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巻頭写真1
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