兵庫県赤穂市の文化財 -the Charge for Preservation of Caltural Asset ,Ako-
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木虎谷11号墳発掘調査現地説明会資料


平成16年7月11日(日) PM1:30〜
調査期間:平成16年 5月24日〜8月11日
調査主体:赤穂市教育委員会 生涯学習課 文化財係
調査面積:250u
調査対象:木虎谷11号墳

有年(うね)地区の遺跡

 赤穂市の北部に位置する有年地区には、多くの遺跡が地下に眠っています。その歴史は縄文時代(約3000年前)にまで遡り、東有年・沖田遺跡などで土器、石器などが見つかっています。
 今回説明する木虎谷11号墳のある有年原地区では、直径19mもの規模を持つ弥生時代(約1900年前)の墓が見つかった有年原・田中遺跡がよく知られています。古墳時代(約1500年前)になると、背後の山々には蟻無山(ありなしやま)古墳をはじめ80基を超える古墳が築かれるなど、古代の有年地区を支配していた人々にとって、神聖な場所として考えられていたようです。

古墳時代の墓

 古墳時代は、前方後円墳の築造に代表されるように、全国を支配するような権力が生まれた時代でした。現在のところ、古墳時代は3世紀の終わりころ(西暦280年ころ)から7世紀前半(650年ころ:645年大化の改新)の時期とされていますが、大規模な前方後円墳が築かれたのは古墳時代前期から中期にかけてでした。とくに中期には全長486mの古墳(仁徳天皇陵:大山(だいせん)古墳/大阪府所在)まで造られるなど、ピークを迎えました。
 こうした大規模な墓の築造は、民衆に対する権力の誇示(こじ)であったわけですが、7世紀になると、大きな墓は徐々に築かれなくなります。それには「大化の薄葬(はくそう)令(646年)」の施行や、権力誇示の方法が古墳から寺院の建築に変わっていたことなどが考えられています。

群集墳(ぐんしゅうふん)・古墳群って?

 古墳時代後期になると大きな墓は少なくなってきますが、古墳自体の数がとても多くなります。現在、全国にある古墳のうち9割以上はこの時期に造られたもので、従来に古墳を造ることが出来なかった人が造ることができるようになったため、古墳の数が一気に増大したと考えられています。
 いくつかの墓が集まっているものを、ふつう「古墳群」と呼びますが、古墳時代後期になって造られた小さな古墳の集まりは政治的な意図が考えられることから「群集墳」と呼んでいます。こうした群集墳のほとんどは「横穴式石室」と呼ばれる石室を埋葬(まいそう)施設として築いています。
 今回調査している木虎谷古墳群もこの時代に造られたもので、15基の古墳が集中しています。すべて6世紀代に造られており、現在のところ、木虎谷11号墳のすぐ後ろにある木虎谷2号墳(兵庫県指定文化財)が最も古く造られたとされています。木虎谷2号墳は、木虎谷古墳群の中でも最も大きく(直径15m)、赤穂市内で唯一石室内に「石棚(いしだな)」をもつものです。

横穴式石室って?追葬(ついそう)・家族墓

 横穴式石室とは、石によって部屋を造り(石室)、横から出入りのできるようになっている石室(石を積み上げて造っている部屋)のことです。石室は人を埋葬する部分(玄室:げんしつ)と出入り口部分(羨道:せんどう)に分かれており、羨道は「この世・現世・石室外」と「あの世・黄泉(よみ)の国・玄室」とをつなぐ空間とされていたようです。
 埋葬した後は、石などで羨道を埋めてしまいます(閉塞石:へいそくせき)が、新たに遺体を埋葬するとき、閉塞石を取り除いて棺を入れることができるようになっています。これを「追葬」といいます。追葬で葬られた人々は、はじめに葬られた人物の家族であり、一基の古墳それぞれが家族の墓と考えられています。

木虎谷11号墳の発掘調査

 木虎谷11号墳は、昭和初期に大きく破壊されましたが、一部の盛土(墳丘:ふんきゅう)が良く残っており、また石室内も荒らされていなかったことから、さまざまな情報を得ることができました。
 石室の周りの盛土(もりつち)には、雨水による土の流失を防ぐために「葺石(ふきいし)」が築かれ、さらにその下には大きな石が円形に並べられていました(列石(れっせき))。山から流れてくる水は、周溝(しゅうこう)によって東西に流されました。
 このように、墳丘がどのようなものだったのかは明らかになりましたが、石室周辺の盛土がほとんどないために、古墳の大きさが現在のところ確定できていません。石室は、玄室と羨道の区別がない無袖(むそで)式の横穴式石室ですが、石室内に大きな石が置かれており、同様の意識があったことがうかがえます。

 木虎谷11号墳は、古墳時代終末期(6世紀末〜7世紀初頭)に築かれ、飛鳥時代(7世紀中ごろ)に追葬が行われたことがわかっています。さらに11世紀の土器も出土していますが、盗掘(とうくつ)されたわけではないようです。初葬面はまったく盗掘等を受けていませんが、副葬品は石室内に散乱していました。このことから、追葬時には、じゃまなものをどける「片付け」が行われたことがわかります。
 50年程度しか経っていない墓を開けて追葬する行為は、この時代よく行われており、家族墓であったとしても、墓に対する意識が現在と異なっていることが良く分かります。


古墳時代終末期(初葬)


 6世紀末から7世紀初頭にかけて埋葬されたもので、副葬(ふくそう)品である須恵器(すえき)、鉄刀、鉄鏃(てつぞく)、耳環(じかん)が出土しています。玄室は閉塞石によって閉ざされています。

飛鳥時代(追葬)

 7世紀中ごろには、新たに遺体を埋葬するため、初葬時の副葬品を片付け、石室内を整地し、新たに棺を入れました。副葬品として、土器や鉄刀が納められていました。

平安時代

 11世紀ころには、副葬品目当ての盗掘ではないものの、若干石室内が荒らされたようです。完全な形の碗が1点出土しています。

昭和初期

 蔵を建てるために石室の上部が取り壊されましたが、埋葬面は残されました。


古代に書かれた『古事記』には、次のような一節があります。

イザナギ(男性)とイザナミ(女性)は結婚し、島々、神々を生み出していった。しかし、イザナミは火の神カグツチを生んだ際に火が回って焼け死んでしまった。イザナギはイザナミに会うため、黄泉の国を訪れる。

イザナギ
 「愛しいイザナミよ、私があなたと作っている国はまだ完成していません。帰ってきてください。」
イザナミ
 残念ですが、もっと早くに来ていれば。私は黄泉の国の食べ物を食べてしまいました。しかし愛しいあなたが来てくださったのは大変恐れ多いことです。帰ろうと思いますので、黄泉の神様にお願いしてきます。その間は、決して私を見ないでください。

 このようにして、イザナミは黄泉の国に一度戻っていき、かなりの時間が経ったが、イザナギは待ちきれなくなった。イザナギが髪(かみ)に刺していた櫛の歯に火をともして入っていくと、そこにあったのはウジ虫の湧いたイザナミであった。頭には大雷、胸には火雷、腹に黒雷、陰部には斥雷、左手に若雷、右手に土雷、左足に鳴雷、右足に伏雷がおり、8柱の雷神が集まって存在していた。
 イザナギは恐ろしくなって逃げ帰ったところ、イザナミは「私に恥をかかせたわね」と言い、ヨモツシコメに追いかけさせた。イザナギが黒御蔓(くろみかずら)をヨモツシコメに向かって投げるとブドウの実がなり、ヨモツシコメがこれを食べている間に逃げることができた。また追いかけてくると、今度は髪に刺していた櫛を投げつけた。するとタケノコがなり、ヨモツシコメがこれを食べている間に逃げた。
 次に、8柱の雷神と1500もの黄泉の軍勢が追ってきた。イザナギは持っていた十拳剣(とつかのつるぎ)を抜いて、後ろ手で振りながら逃げたが、さらに追いかけてきた。イザナギが黄泉国と現世の境界にある「黄泉比良坂(よもつひらさか)」の坂本に着いたとき、そこにあった桃の実3つを投げつけたところ、軍勢はことごとく逃げ帰っていった。

(中略)

 最後にイザナミ自らが追いかけてきた。イザナギは千人がかりでやっと引くことができるほど巨大な岩で黄泉比良坂をふさぎ、イザナミに離別(りべつ)を言い渡した。
 イザナミは「愛しいイザナギ、こんなことをするならば、あなたの国の人を1日1000人絞め殺すことにしましょう」というと、イザナギは「あなたがそんなことをするならば、私は1日に1500人分の産屋(うぶや)を建てることにしよう」と返した。このようなことがあって、この世では、1日に必ず1000人死に、1日に必ず1500人生まれるようになったという。

まとめ

 横穴式石室は、追葬のできる埋葬施設でした。日常、遺体を葬(ほうむ)っている玄室は石でふさがれていますが、新たに遺体を埋葬するとき、閉塞石を取り除いて奥に開けた空間は、真っ暗く冷たい、黄泉の国であったに違いありません。石室内が黄泉の国=死後生活する世界であったとすると、杯(つき)などには、黄泉の国の食べ物が盛り付けられていたのでしょう。石室を造った人々は、埋葬後、羨道(入口)を石などで埋めてしまいました。これは『古事記』でイザナギが行ったように、現世と黄泉の国とを分ける行為であったことでしょう。ここで別離の言葉を言ったのかもしれません。
 このように、現世と死後の世界とを分ける考えがあったにもかかわらず、追葬時には初葬の副葬品を手荒に扱っています。骨は腐っていたかもしれませんが、金属製品や土器は残っていたはずですから、古人の埋葬として敬う意識があったとは言えません。ここが現在の埋葬に関する意識と大きく異なるところであり、今回の発掘調査で、明らかになったことの一つだと考えます。

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巻頭写真1
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