兵庫県赤穂市の文化財 -the Charge for Preservation of Caltural Asset ,Ako-
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赤穂城跡二之丸門枡形発掘調査現地説明会資料


 このページは、赤穂市教育委員会が平成14年度に編集・発行した『赤穂城跡二の丸門枡形周辺発掘調査現地説明会資料』のWeb版です。
 あくまでWeb公開用ですので、写真・図面は印刷に耐えないことをご了承ください。
なお、レイアウトは解像度1024×768、文字サイズ小を標準としています。


平成14年6月2日(日) PM1:30〜
調査期間:平成14年 5月13日〜6月上旬
調査主体:赤穂市教育委員会 生涯学習課 文化財係
調査面積:442u
調査対象:赤穂城跡二の丸門枡形周辺と外堀

 赤穂市教育委員会では、国史跡赤穂城跡整備の基礎資料を得ることを目的として、継続的な発掘調査を行っています。今回の調査地は二の丸門周辺にあたり、調査の結果さまざまなことがわかりましたので、報告いたします。

 

ポイント1  赤穂城と二の丸門

県立赤穂高等学校所蔵「浅野時代赤穂城之図」
『浅野時代赤穂城之図』(県立赤穂高等学校所蔵)

 城と聞くと、戦国時代末に多くつくられた「天守閣」をもったものをほとんどの人が思い浮かべますが、赤穂城は江戸幕府ができて約50年も経ってから浅野氏によって造られた、天守をもたない平城です。
 それ以前にも池田氏が城を造っていますが、絵図から見る限りそれほど大きな城ではなかったようです。天下(てんか)泰平(たいへい)の時代に造られたので実戦で使われたことはありませんが、優れた甲州流軍学を生かしてさまざまな防御施設が造られています。

 絵図にあるように、城への入り口はすべて門によって遮(さえぎ)られていますが、これらの門はまっすぐ開いているのではなく、戦(いくさ)のときに侵入されにくいように曲げて造られています。このような曲げて造る門のうち、もっとも厳重な防御施設が「枡形(ますがた)」でした。赤穂城には枡形門が5箇所に造られましたが、本丸へまっすぐにつながる二の丸門は、その中でも重要な地点でした。一時、赤穂に召抱えられていた軍学者の山鹿素行が、二の丸門の枡形を変更したという伝承もあります。

ポイント2 絵図からみた二の丸門の枡形

 江戸時代には、幕府から命令を受けた時や城を修復する時などに、絵図が作られることがありました。赤穂城では、幕府に提出した絵図は残っていませんが、ほかのさまざまな絵図が残されています。これらの絵図で今回の調査区を見てみると、枡形のカタチは絵図によって差があり、「L」字のようなカタチと、まっすぐなカタチが見られます。これらの史料から考えると、ある時期に枡形が改修されたような印象を受けます。
しかし1615(元和元)年に幕府によって制定された武家諸法度では、石垣や門の改修は申請が必要とされ、後に門などの建物は申請不要となったものの、依然として石垣の改修には幕府からの許可が必要でした。このような状況で、果たして赤穂城では改修が行われたのでしょうか。

県立赤穂高等学校所蔵「浅野時代赤穂城之図」
『浅野時代赤穂城之図』(一部・県立赤穂高等学校所蔵)

調査成果

 今回の発掘調査の結果、絵図に載っているとおり、枡形遺構と堀遺構を確認しました。
しかし、発掘成果は絵図ほどわかりやすくはありません。
 次ページでは、発掘調査から得られた情報をご説明いたします。

ポイント3 発掘調査でみつかった枡形

二之丸門枡形略図

 発掘調査では、枡形石垣の上部は見つからなかったものの、その基礎となる「根石(ねいし)」を確認することができました。二の丸門から西にかけては、明治25(1892)年の大洪水からの復興資材として、石垣が持ち出されており、そのためにほとんど残っていないのでしょう。しかし根石さえあれば、当時の形を考えることができます。

 発掘から推定できる枡形の石垣は、「L」字のもの(石垣A)と、それに付け足されたもの(石垣B)に分けることができます。石垣Aの面が揃っていること、石垣Aと石垣Bの間には小さな石があること、石垣の裏に詰められた小石(栗石:ぐりいし)に違いがあることから、枡形は一度Aの形が作られ、その後Bの形になったと考えています。

 ところで図を見てみると、石垣Aの内側(門側)には石垣がありません。これは何を示すのでしょうか。二の丸門周辺に関しては、たった一枚ですが古写真が残っています。その写真には中から鉄砲や弓矢を撃つための穴(狭間:さま)が写っていますので、石垣の上に昇る階段(雁木:がんぎ)があったと考えています。

ポイント4 発掘調査と絵図

 果たして、発掘調査で見つかった2つの枡形が、絵図で見られた2つの枡形に対応するのでしょうか。絵図に注目してみましょう。絵図には今回見つかった枡形の長さが「6間」または「6間4尺」と書かれています。1間の長さは地域によってさまざまですが、これまでの調査から赤穂城では約197cm(6尺5寸)と考えており、絵図に書いてある枡形の長さは約11.8m(6間の場合)となります。今回の調査で見つかった枡形の根石の長さは約12mですから、ほぼぴったりの長さになります。

 長さはぴったりでしたが、では絵図の枡形石垣が「L」字形に見えるのはなぜでしょうか。これは「絵図の描き方」に原因があると思われます。古写真では、先に書きました「狭間」のある土塀(どべい)が、狭いながらも枡形石垣の先端に「L」字形につけられていたことから、絵図を描いた人はそれを意識してそう描いたのでしょう。

 このように考えると、発掘調査で見つかった石垣Aは、絵図には描かれていない古い石垣だったことになります。しかし、もう一つ問題が出てきます。石垣Aと石垣Bの堀側にはやや大きな石と小石がたくさん詰め込まれていますが、これはもともと池田氏の城の堀内だったこの場所に石垣を築くための「根固め」です(図参照)。その「根固め」の方法が石垣Aと石垣Bでは変わらず、また連続しているという事実は、石垣Aと石垣Bがほぼ同時に造られたことを示しています。

 以上のように、石垣Aと石垣Bの境がはっきりしていながら、ほぼ同時に造られていることからすると、いったん石垣Aとして造っていた枡形を、すぐに石垣Bに造りなおしたと考えるのが自然と思われます。これは先に述べました、軍学者山鹿素行による築城時の設計変更の伝承を思い浮かべますが、それは今後の文献の検討と継続的な発掘調査が必要となるでしょう。

根固め模式図

ポイント5 堀への排水施設

 枡形石垣の西側には、二の丸外堀が広がっており、これに関連して2つの水路が見つかりました。ひとつは石組の水路、もうひとつは分厚い板で組まれた木樋(もくひ)で、いずれも堀内に排水するためのものと思われます。

 石組の水路は延長線をたどると枡形石垣の角に当たるため、石垣Bの残っている時期に利用されていた可能性がありますが、木樋と改修された護岸石垣によって破壊されています。この木樋等の時期については現段階ではわかりません。

ポイント6 出土遺物

 堀の中からは陶磁器類をはじめ、木製品や瓦などが出土しました。中には子供用の下駄といった木製品もありましたが、枡形周辺の堀では瓦が集中的に出土しています。当時の土塀や門の屋根に葺かれていた瓦が落ちているのは当然ですが、生活のにおいのある陶磁器類がほとんど出土していません。このことは、門が日常生活の場ではなかったことを改めて示してくれます。

ポイント7 その他

 昨年まで調査していた二の丸錦帯池の東にある大石頼母助(たのものすけ)屋敷跡では、道路側溝が発見されていましたが、今回の調査でもその続きを見つけることができました。また、二の丸石垣の中部分(土塁:どるい)を調査することで、石垣の設置方法がわかりました。

 

 赤穂市教育委員会では、赤穂城跡の発掘調査を継続的に行っています。地道な調査によって赤穂城の歴史を明らかにすることができ、築城当時の赤穂城がよみがえっていくことでしょう。

写真1 写真2 写真3 写真4

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巻頭写真1
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