作成:赤穂市教育委員会文化財課文化財係

尾崎地区の歴史文化

■地勢と歴史

地 勢

千種川下流域の東岸にあり、宮山によって洪水の難を逃れた場所が尾崎の中心地である。宝崎神社のノット岩の存在は、このあたりがかつて流紋岩の岩盤が露頭していたことを想起させ、千種川の運び込んできた土砂とその後背湿地の形成によって生活地盤ができ、人々の居住が始まったことが推定される。

現在の尾崎地区に広がる新興住宅地は、かつての東浜塩田であり、北にある石指(イッサシ)の山を削って大造成がなされたもので、その景観は近代になって大きく変貌したが、水路や地名にかつての塩田の名残を残す。一方、宮山周辺の旧市街地については、一部に街路整備が行われているものの、江戸時代とほとんど変わりない町割が残されている。

 

歴 史

尾崎地区には海岸沿いに縄文時代の猪壺谷遺跡や古墳時代の尾崎・大塚古墳が見られるが、その背景は明らかでない。中世も社寺の縁起や伝承によって歴史が語られているにすぎず、明確な歴史が明らかになっているのは江戸時代以降である。

江戸時代になり赤穂を治めた池田家の代官、垂水半左衛門ははじめ尾崎に居を構えたといい、慶長10(1605)年には赤穂八幡宮を西部地区の銭戸からこの地に遷したともいう。こうした背景には塩田開発があり、寛永3(1626)年には池田家の家臣岡田弥兵衛が製塩技術を伝えたという。

東浜塩田の干拓開始は、浅野長直が赤穂に入封してすぐの正保3(1646)年といわれており、御崎新浜村とともに一大生産地となった。

※このサイトは書籍『赤穂市歴史文化基本構想』をまとめ直したものです。各項目をクリックすると、PDFファイルが開きます。

■歴史文化の視点

■地域データ

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