兵庫県赤穂市の文化財 -the Charge for Preservation of Caltural Asset ,Ako-
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市指定文化財
赤穂西浜関係資料 
あこうにしはまかんけいしりょう

区分
有形文化財
種別
歴史資料
数量
7,918点
所有者
赤穂市
指定年月日
R.6.3.29
指定番号
64
説明

 塩は、私たちの生活に欠くことのできないものである。生活必需品を送る道のことを塩の道といい、人々の生活する物資流通が送られるぎりぎりの場のことを塩尻といわれるように、塩は生活必需品の代名詞として使われていた。

  日本は四面が海に囲まれているため、海水から塩を採取することは可能だが、瀬戸内地方で塩が製塩地帯となるのは、17世紀以降の入浜塩田が築造されてからのことである。

  入浜塩田の歴史は、兵庫県高砂の荒井浜など上灘目地方の塩浜が早いと言われる。赤穂塩田は、これらの地域の浜人が移住して築造された、しかも整備した入浜塩田である。赤穂では古くから塩づくりはなされていたが、入浜塩田として整備されるようになるのは、浅野長直が常陸笠間から赤穂藩主として転封してからのことである。以来、赤穂塩は、全国に送られる。特に江戸、大坂などの大市場において、赤穂塩は「赤穂」「あこう」「あこ」などという表記で記され、当時の人々にも、赤穂は塩の代表的な産地として知られている。以来、現在に至るまで、「赤穂の塩」は、日本を代表する塩として知られたところである。

 本史料群は、平成29 年12 月1日に株式会社日本海水より寄贈を受けた、総点数7,918点に及ぶ旧赤穂西浜塩業組合に関する史料群である。

 明治38(1905)年の塩専売法施行に伴い、赤穂には大蔵省赤穂塩務局(3 等級)が特設され、赤穂の製塩業者を管理監督することになった。当時、地主、自作や小作が加入した赤穂製塩同業組合はすでにあったが、明治43(1910)年2月に加里屋、塩屋の製塩業者が新浜、尾崎の製塩業者と分離して設立したのが赤穂西浜塩業組合である。

 赤穂西浜塩業組合は、塩の代納、労働者管理と賃金規定、石炭計量の監督などを事業としていた。その後、大正9(1920)年には塩屋塩業組合などと合併して赤穂西浜信用購買利用組合となる。昭和34(1959)年の第三次塩業整備のとき、日本専売公社は生産性の低い西浜塩業組合に対し、自主廃業または経営改善を勧告した。このとき、西浜塩業組合は廃業ではなく、経営改善で対応する。昭和35年(1960)5月、赤穂海水株式会社を創設する。その後、昭和47(1972)年、赤穂海水化学工業株式会社は全国第1号のイオン交換膜製塩の許可を受けた。現在、株式会社日本海水として製塩が続けられている。

 本史料の内訳は、図面1,545点(測量図523点、設計図880点のほか建物配置図、工程図、グラフなど)、書類415点(2,259頁)、写真5,958点(ネガ1,967点、紙焼き3,958点など)である。昭和20 年代後半〜40 年代のものが中心である。昭和50 年代以降のものは現在も株式会社日本海水が保有している。

 本史料群の中心は、昭和20年代後半から30年代初頭にかけて行われた流下式塩田工事およびその前後の図面、写真である。裏面に説明が付されているものも多くある。工事現場を示す史料だけでなく、空中写真などもあり、当時の赤穂塩田の様子が判明する。

 日本塩業は塩田塩業といわれ、濃い塩水を塩田から採取する採鹹(さいかん)作業と、濃い塩水を煮炊きする煎熬(せんごう)作業の二つの工程によってなされるが、この時期までに、煎熬作業(煎熬工場)は真空式製塩工場が各地に設立されていた。それに対し採鹹作業については、全国的に江戸時代以来の入浜塩田によって行われており前近代的といわれていた。その意味で、流下式塩田への転換は採鹹作業の近代化と言われる。

 流下式塩田への転換工事は、塩田塩業の近代化を意図して日本専売公社の主導で、瀬戸内塩田を対象に昭和28(1953)年から33(1958)年にかけて行われた。流下式塩田とは、粘土層にした塩田の上に砂地を敷き詰め、海水を流下させ、そのヤグラに篠を張り巡らせた枝篠架に海水をかけて自然乾燥させることによって、塩分濃度を高める設備である。流下式塩田とすることで、塩田で作業する浜子は不要となった。それに伴い、それまでの主流を占めていた入浜塩田、揚浜塩田は終焉を遂げることとなる。これにより入浜が1ヘクタール当たり年間120d程度生産していたのに対し、200dから400dと約2倍以上生産された。さらに、1ヘクタール当たり6人から8人程度の浜子が必要だったのに対し、海水、鹹水を操作する人員が必要なだけで、1ヘクタールだと0.5人程度しか必要としなくなったのである。なお、その後、イオン交換膜法製塩法が開発され切り替えられることで、流下式塩田による製塩法は昭和47(1972)年で終焉を遂げることになる。

 流下式塩田転換の経緯は、日本専売公社編『塩業整備報告(全2巻)』(1966年)、日本専売公社編『第四次塩業整備事績報告』(1973年)によって大要を知ることができる。また、当時の経営関係史料などは各地に残されているが、本史料のように転換工事そのものを具体的に知ることのできるものは稀有である。しかも、代表的な塩産地である赤穂に残されていたことは極めて重要な意味があるといえるだろう。

 特に設計図の原図や、ブローニーフィルムによる工事写真フィルム及び紙焼きが多く含まれていることが特徴で、当該期における近代製塩技術を研究するうえで貴重な史料である。とりわけ、入浜塩田から流下式塩田に移行する過程でいかなる産業技術を転用しているか、当時の産業技術をどのように応用しているかを知る上でも重要である。

現在、市所有の赤穂塩業に関する主な資料として、東浜については近世主体の「田淵家文書」及び近現代の「赤穂東浜信用購買利用組合文書」が、西浜については近世〜近代主体の「真光寺旧蔵柴原家文書」があり(いずれも赤穂市指定有形文化財)、本資料が西浜の近現代をカバーすることにより、赤穂塩田の基礎資料が揃ったことになる。

赤穂西浜塩田資料 内訳

(1)図面1,545点
測量図523点、設計図880点、建物配置図107点、グラフ23点、工程図4点、地図3点、その他図面3点、計画図1点、工事実績図1点
(2)書類等415点・2,259頁
書類347点、冊子16点、パンフレット12点、封筒11点、空封筒11点、その他紙7点、空ネガ・プリント袋6点、他社図面4点、ビニール袋1点
(3)写真5,958点
ネガ1,967点、紙焼き3,958点、OHPプリント19点、ポジ13点、パノラマ写真1点



(上記は指定時の文章です)

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巻頭写真1
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