■赤穂城

名 称
赤穂城跡(あこうじょうあと)
文化財指定内容
・国史跡
 190,405.17u
 昭和46年3月31日指定
 (追加指定)平成15年8月27日
・国名勝(旧赤穂城庭園 本丸庭園・二之丸庭園)
 24,912.58u
 平成14年9月20日指定
その他の指定・選定
・総合公園「赤穂城跡公園」19.1ha(昭和58年11月)
・日本100名城(平成18年2月13日・公益財団法人日本城郭協会)
・日本の歴史公園100選(平成18年10月27日・都市公園法施行50周年等記念事業実行委員会)
管理団体
赤穂市
城内の史跡等
大石良雄宅跡(国指定史跡・大正12年3月7日指定)
近藤源八宅跡長屋門(市指定建造物・平成10年4月27日指定)

■赤穂城の概略

 赤穂城は、正保2年(1645)に常陸国笠間から入封した浅野長直が、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ,慶安元年(1648)より13年以上に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成したものです。

 城郭の縄張りは近藤正純の指導のもと甲州流軍学によるもので、一部、二之丸枡形虎口付近は山鹿素行が設計変更したと伝えられています。

 本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸の関係は梯郭式になっており、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城とされています。
 城郭の規模は、10の隅櫓、12の諸門があり、曲輪の延長は2,844mに及んでいます。塁石、防壁、諸門、本丸御殿などが整えられ、居城としての威容が示されましたが、天守台のみ築かれて天守は構築されませんでした。

 三代続いた浅野家ですが、刃傷事件により断絶し、その後は永井家、次いで森家の居城となりました。明治の廃藩置県後、赤穂城は払い下げられ、屋敷地は民有地となりました。
 しかし城郭復興の気運が高まり、大正元年(1912)には三之丸に大石神社が建立、大正14年(1925)には二之丸に山鹿素行銅像が建立されるなどしました。

 昭和3年(1928)には本丸内に赤穂中学校(後の赤穂高等学校)が竣工しましたが、昭和15年(1940)には城跡が風致地区に指定され、昭和27年には都市公園の計画決定、さらに昭和46年(1971)には国史跡に指定され、赤穂城整備が推進されることになりました。

 また平成14年(2002)には、旧赤穂城庭園(本丸庭園・二之丸庭園)が国名勝に指定され、現在も計画的に整備が図られています。

■赤穂城データ

所在地
 赤穂市上仮屋
別称
 仮屋城・加里屋城・蓼城
築城年
 寛文元年(1661)
城主
 浅野氏(長直、53,500石―長友、以後50,000石―長矩)
永井氏(直敬、33,000石)
森氏(長直―長孝―長生―政房―忠洪―忠興―忠賛―忠哲―忠敬―忠徳―忠典―忠儀、20,000石)
築城奉行
 築営矩縄張=近藤正純
 普請大奉行=小嶋良次・稲川宗長
 石垣築奉行=河嶋伸好・片岡元房・荒木継則
 (追加)岡部新助・河村源助
 戸島石出奉行=明石與次右衛門・白井助之丞・甲斐喜太夫・佐藤甚之助(後に石垣築奉行に追加)
 城下石請取奉行=近藤仁左衛門・大石弥左衛門・田中吉右衛門
形式
 海岸平城
縄張
 変形輪郭式
面積
 44,444坪(約146,700u)
 本丸=4,580坪(約15,100u)
 二之丸= 17,259坪(約57,000u)
 三之丸=22,605坪(約74,600u)
 本丸=総延長約211間(約565m、櫓・門・枡形部分除く、以下同様)、高さ四間一尺(約7.5m)
 二之丸=総延長約681間(約1,238m)、高さ3間4尺(約6.7m)
 三之丸=総延長約573間(約1,041m)、高さ3間(約5.4m、ただし塩屋門南から西南櫓にかけては約1間半)
堀の幅
 12間3尺(約22m、最大)
建造物
本丸=天守台、本丸御殿、東北櫓、本丸門、厩□門(台所門)、刎橋門、土塀
二之丸=東北隅櫓、潮見櫓、南沖櫓、一重櫓二基、二之丸門、水手門、西中門(西の門)、東・西仕切門、土塀、米蔵、煙硝蔵、馬場、茶屋、錦帯池
三之丸=東隅櫓、大手門北隅櫓、塩屋門南櫓、西南櫓、大手門、清水門(川□門)、塩屋門、干潟門(潟□門)、太鼓櫓、土塀
土塀の狭間数
本丸=矢・鉄砲狭間272、大筒狭間8
二之丸=矢・鉄砲狭間1,050、大筒狭間25
三之丸=矢・鉄砲狭間632、大筒狭間31
存廃城の別
 廃城
遺構
 天守台、石垣、堀、大石邸長屋門・近藤邸長屋門(三之丸)