作成:赤穂市教育委員会文化財課文化財係

赤穂・城西地区の歴史文化

■地勢と歴史

地 勢

千種川河口部の陸地化は遅く、現在の赤穂・城西地区周辺は、古代末から中世頃にかけてようやく陸地になったといわれている。赤穂城下町跡の発掘調査では、池田時代(約400 年前)の地面は標高で1.0mだったことが判明しており、当時は井戸を掘っても塩水が出て使用できなかったという。

 

歴 史

千種川が運び込んだ土砂によって、低平で肥沃な平野が広がったところに人々が生活をはじめ、城や城下町を造ったのが、赤穂・城西地区の始まりである。中世になると、現在の市街地部分に「加里屋古城」と呼ばれる砦が築かれた。また豊臣秀吉が毛利攻めの際にこの周辺を整備して、姫路と備前への街道が整備されたという。

江戸時代になると、さらに海側へ陸地化した平野を活用して、現在の赤穂城跡本丸内に「掻上城」が池田家によって築かれ、また生活水の確保のため元和2(1616)年に旧赤穂上水道が敷設された。慶安元(1648)年には浅野長直によって現在の赤穂城が築城されはじめ、塩田生産による活況を背景に城下町も拡大整備されている。

刃傷事件によって浅野家が断絶した後は、永井家、次いで森家による支配に代わる。森赤穂藩は石高が浅野赤穂藩の半分以下の2 万石となったため、侍屋敷が畑地化するなど、城下町は衰退していった。

明治22(1889)年には加里屋町が上仮屋、中村と合併して赤穂町となり、昭和12(1937)年には塩屋、尾崎、御崎(新濱)の各村と合併した。

※このサイトは書籍『赤穂市歴史文化基本構想』をまとめ直したものです。各項目をクリックすると、PDFファイルが開きます。

■歴史文化の視点

■地域データ

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